中津先生のお別れ会に参加して

投稿日:2011年11月24日

かつての東京未来塾のOBを主な対象に、今年6月に亡くなられた中津先生のお別れ会を先日渋谷にて行いました。参加者数は主催者であるわたくしたち「中津燎子の英語未来塾」のメンバーを入れて30名ほど、大阪からも数名参加されました。1999年に東京未来塾が閉校となり、自主運営組織を立ち上げて現在に至っていますが、わたくしは改めて自分たち自主運営活動の原点は何かについて、振り返る機会になったと感じました。
 
『なんで英語やるの?』の出版から8年目(1982)に社会人向けの講座「未来塾」を大阪で立ち上げ、その17年後に全ての活動を終えるまで、中津先生は弟子達の協力はあったものの、実質一人で大阪、名古屋、東京の未来塾講座を主宰され、更に途中からは宮崎公立大学での授業も加えられて、正に超人的な活動をされました。年齢でいうと57歳から73歳にかけてでした。1988年に狭心症を患われましたが、それ以後も訓練は常にエネルギッシュであったと思います。
 
このように行動において中津先生は超人的であり、同時に発想の面においては(普通の日本人から見て)異邦人と言える存在であったと思います。国籍は日本人でしたが、希有な経歴が示すように、中身は日本人ではなく、そのルーツは3歳から9年間過ごしたロシアにありました。その上で福岡GHQにおける電話交換手としての8年間、更に30歳過ぎから9年間暮らした米国でのサバイバル闘争を通して「中津燎子」が作られていったと思います。
 
従って、ご自身でも述べておられましたが、先生にとって日本人は外国人であり、かなり理解しがたい存在であったようです。「そこを橋渡しするのがあんた達の役割だからね」といった発言をサブトレーナーだったわたくしたちに対して時々されていました。東京未来塾が閉じられてまもなく自主運営活動の立ち上げを決めたとき、このことばがわたくしの心の何処かにあったことは確かだと今にして思います。「われわれだからできることもある。」
 
中津先生は基本的にお一人で道を切り開いてきました。それを受け継いで、自分たちは志を同じくする仲間と連帯し、協同して、自分たちのやり方で発音を含めた異文化対応コミュニケーション訓練活動を継続するのだという決意を新たにしているところです。
 
 

<ナガちゃん>