“ I ”を取り巻くバリア

投稿日:2012年5月28日

“ I ” は「私」と同じではありません、との文言を未来塾のパンフレットに標語として載せています。“ I ”と私を隔てるバリアがそれだけ大きいと考えるからです。そのバリアとは何かを分析し、乗り越える方法を少し考察してみましょう。

 

わたくしは日本人が英語の “ I ” をマスターする際に、次のような困難に直面すると思います。大きく2つあります。

 

(1) 文化のバリア
日本の文化は「私」を余り前面に出さないことを貴ぶため、たとえ日本語であっても「私」と言う場合には少なからず勇気が必要であり、「私」と言った途端に頭が白くなり平常心が保てなくなる感じになる。

 

(2) 発音のバリア
「私」でさえ言い慣れないのに、“ I ” は発音上日本語の何倍もの息で作る勢い(未来塾ではこれを“アタック”と呼んでいます)が必要である。その “ I ” を外国人に対して直接発する場合には、更に緊張度が高まる。

 

(1)については、「私」と言うか言わないかよりも、自己主張の強さという観点から見た方が分かりやすいかもしれません。一種の権利としての自己主張を貫くのが当たり前の文化をバックボーンに持つのが “ I ” であるとすると、むしろ「私」を消すことを奨励されるような日本文化はやはり異質と言わざるを得ないでしょう。この異質を乗り越える難しさがあります。

 

(2)の発音上の違いについては、これまでのブログの中で、“アタック”を含めて繰り返し触れてきました(*)。只、今回一つ強調しておきたいのは、母音の中でも “ I ” は特に出しにくい音であり、そのため習得には他の母音以上に時間がかかるという点です。たとえば母音Aの場合に比べて、息と声の塊が喉をスムーズに通りにくいようにわたくしには感じられます。“ I ”の音作りの難しさです。

 

さて、文化と発音の違い、便宜上この二つを分けて述べていますが、実際には相互に関連しあっていて表裏一体であり、分割不可とみるべきです。その解決の切り口を考えるには一つは発音面から捉え、英語とカタカナ音の違いを認識し、それを乗り越える練習が有効と思います。他方で、ディベート手法を利用した訓練等を通して、自己主張文化に慣れる必要があります。

 

文化面と発音面双方から自己を研鑽して、その過程で自らを他者に対して出す(自己主張・自己表現の)面白さ、爽快さに気付いたとき、その人にとって“ I ”を取り巻くバリアは8割方除去されているとわたくしは思うのです。

 

「“I”の重み」(2010.8.11.掲載)
「アタック」(2010.8.25.掲載)

<ナガちゃん>