中津先生の新刊出版記念茶話会報告

投稿日:2010年10月22日

10月17日(日曜)、中津先生の新刊『声を限りに蝉が哭く』の出版記念茶話会が催されました。場所は大阪狭山市のコミュニティセンター。参加者は全体で40人ほどで、東京の未来塾からは私と二人のトレーナーが参加しました。中津先生を囲んで、同窓会のようなアットホームな雰囲気が終始ありました。
 
茶話会で行われた講演の冒頭で、先生はご自分の持病や体調について触れられ、あと1年くらいの寿命ではないかと話されました。でも、講演を終えるときの力強い姿勢からは、とてもそうとは思えませんでした。
 
その講演内容の一部をご紹介します。
 
― 子供の頃から3つのことを信条にして生きてきた。3つとは、弱いものいじめをしない。卑怯なことはしない。そして嘘をつかないということである。そしてこの3つを他人にも求めてきた。
 
― これまでいろいろなもの(記録、本)で調べて思ったことは、「日本人は国民を殺す」民族ではないかということである。大戦中のガダルカナルでの戦いが一つの例で、軍人達は兵士である国民が戦地で死ぬとまた兵士として国民を戦地へ送り込んだ。それを繰り返して行った。軍人は国民を殺したのである。これをまた日本人はやるという印象がある。
 
この同じことを何回もやるという日本人の戦争の仕方は、日本人の英語教育の仕方と同じである。変化、進歩がなく、あけてもくれてもカタカナ(英語)でやっている。新しい物をつかむという行動が日本人にはない。また、知らないもの、自分とは関係が無いものには退いてしまう。対処方法を自分たちで作らないで全て、断ち切れてしまう。
 
― 国語の時間に議論に耐える日本語を教えた方がいい。シカゴに居て、分かったことは、勝負はスピーチである。スピーチは変化をおこす。西洋、ロシアの教育はまず、言葉磨きである。言葉磨きがコミュニケーションになる。アメリカ留学の際、どんなことをやるか知らずに参加した「オーラル(Oral)」という授業で、隣に座っている、話したこともない人の紹介をやらされた。
 
― 日本語は流しそうめんのようである。「~だけれども」や「~で」などで文がだらだらと続き、言い切らない。また、事実を事実として捉え、伝える日本語が肝要なのに国語の授業ではそれを教育していない。
 
― どんなに短くても、音(発音)には必ず、意味がある。この発音の実態をアメリカの黒人の教会で男女が「サマータイム」を歌うのをきいて学んだ。とても美しかった。
 
中津先生は今でも月に二回、スピーチの音声表現を元気に教えていらっしゃるそうです。そんな行動や講演の中で見られる中津先生の姿勢、主張は、先生が東京でレッスンをされていた頃(12年くらい前)と全く変わらず、お年を召されて、体力が衰えても全然ぶれていないと感服しました。
 
今回の茶話会に参加して、私は中津先生から元気をもらいました。今後も、トレーナーとして未来塾のレッスンを頑張りたいと思っています。
 

 <オサリン>