日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

日本観察日記

呼吸と英語の関係(その3)

私は成人に腹式呼吸による発声を訓練してみてつくづく考えた事は、人間が生まれてから二十有余年、さしさわりもなく毎日息を吸って吐いて生きて来た、その息のやり方を突然変える事が、如何に困難か、と言う事であった。
人間の呼吸法や発声が、一瞬にして変えられるものではないのだ。
日本人が、日本語を生れた時から耳にし、二つ三つの頃から口にし、なじんで来たその音の出し方、息との関係は、ある日突然、本人が英語を習得しようと決心したところで、英語式に変化しないのである。英語民族にしても同様で、アングロサクソン民族が長い年月かかって作りあげた英語式発声は、それなりの理由があって出来た。これはいずれの民族の言語にしてもそうなのだ。だから外国語を習得する時の最も肝心な事は、母国語との差を丹念に拾いあげ、一つ一つ拡大し比較し、その差を習得する事なのだ。呼吸にしても発声にしても、およそ言語に欠く事の出来ない部分だから、そこから比較は出発しなければならない。

共通となっている音と呼吸の存在のところからその差を理解し習得した方が、それから先の習得が非常に楽だと私は考えるのである。現在、英語をやっている人々が、英文法や語感や思考学習のために費やすエネルギーの十分の一もあったら英語の時だけ呼吸法を変え、発声法を変えることはたやすく出来るのではないだろうか。

<著作「呼吸と音とくちびると」21頁より>