私の持論でいえば、男女を問わず人間にとって言葉とは2種類しかない。どういう種類かって言うと、1は仕込まれ語。2は掴み(つかみ)語。
仕込まれ語とは何か。
これは生活、生活環境、状況、社会そのもろもろに必要不可欠な言葉として、親なり先輩なり大人から教えられていく訳ですね。本人が納得しようがしまいが、教えられていく訳です。これは、どの子供もどの国の民族もどの国も同じ。仕込まれ語のパーセンテージは非常に多い。当たり前ですね。仕込まれ語っていうのは、赤ん坊の時から始まりますから、記憶がスタートする以前から始まりますから、ほとんど自分で意識してない。いつの間にやら仕込まれたって言葉です。
それに対して掴み(つかみ)語っていうのは、成長過程でその本人がある日ある時ある機会があって、この時にこの言葉っていうものを自分で発見して、分析して、理解して、納得した言葉なんです。
これはパーセンテージは低いんですけれども、必ずあるんです。掴み語は18歳から30歳ぐらいになりますと、40%ぐらいに増える。だんだん増えるんです。仕込まれ語の方も種類は違ってくるけど、依然としてかなり多い。30歳から60歳になりますと、自分の掴み語がかなり多くなってくる。45歳から55%です。年を取るに従って自信もつきますので、自分の掴み語っていうのが、誤解であろうと誤認であろうと増えてくる。当然、その人の生まれた土地の言葉、日本人なら日本語です。
私の方からお願いしたいのは、外国語をやる前に日本語をもうちょっと分析していただきたいんですね。
特に自分の日本語を。掴み語はいくらあるのか。仕込まれ語は何パーセントあるのか。自分の力で、その仕込まれ語を掴み語にどう変えたか。変えたことはあるのか、ないのか。そのくらいsensitiveにならないと、言葉の勉強なんかできないのではないでしょうか。はっきり言って、日本語の仕込まれ語だけの人は、外国語をやらない方がいいです。ものにならないです。外国語をやる時は、掴み語を、自分の納得いく言語を外国語に代えてこそ物の役に立つんで、仕込まれ語は外国語の仕込まれ語にはならないんですよ。日本語と他の言語とは滅多にならない。だから、自分自身の日本語の分析というのをもうちょっとやっていただきたい。
<講演会“中津燎子の異文化サバイバル 第1回 「言語と私」” (1999/12/12)より>