英語の世界にあって、日本語の世界にないもののひとつが、英語における「対決」の発想と、言葉と音声である。
決して争いではない。ケンカではもちろんない。ふたつ以上の異なった考え方、意図が、そのちがいをあらわにして、向かいあう、という状況にある。そして、言葉でもって、冷静に話しあい、解決の道をさぐる。結果として、どちらかが勝つか負けるかする。最後まで論じつくすけれども、恨みをのこさないのが基本の筋である。
英語の基本発想の中の「対決」は、日本語の世界では「ケンカ」ととられやすいので、欧米人が「対決」でせまってくると、日本人は「まあまあ、ケンカではなく、ここのところは円満に……」と本題を先送りすることが多い。
問題とまともに向きあい、対決して、よく考えて処理する、という発想と、むきにならずにそっとしておけば自然に解決するのだ、という発想とが、ぶつかりあったまま、何年も、何年も、ほったらかしにされた結果が、現在の日本と諸外国との関係ではないか、と私は思っている。
日本人で英語の上手な人が少ないわけは、たぶん、日本と他の文化パターンのちがいを、あからさまにうけ入れず、ただ、言葉だけを学習する人、そして、その技術の上手、下手だけを気にする人が圧倒的に多いからではなかろうか。
日本人はその点さえ、考慮すれば、英語だって何だって上手になるし、苦手意識も薄れるにちがいない。
<著作「BUTとけれども考」55頁より>