日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

父の仕事 その2

九月から私は予想もしていなかったロボット二人を尾行に従えて毎日通学しなければならなくなって茫然としていた。その頃から在留日本人が何かと理由をつけられて拉致され行方不明になる事件が増えはじめて、父は眠るヒマもない程忙しくなった。自分の子供どころの話ではなかったが、私はひそかにゲペウが父の本職以外の仕事に気づいたらどうするだろうか?と恐れおののいていた。ひょっとしたらその子供である私まで拉致するかもしれないと、漠然とした不安を抱えて通学していた。

毎朝私を送り出すのは母だけで、父は出てゆくと五日は帰らなかった。快活な兄がいないので家の中は静まりかえっていた。女中のマルシャがいたけれど、日本の公的機関に住みこみで家事手伝いをしているロシア人従業員は、ロシア側の「内部工作員」にでもならない限り、「日本サイドに寝返った奴だ」として、刑務所にほうりこまれる不安定な身上だった。私が三才半の時からつきっきりで看病をし、クッキーを焼いてくれ、私ののろまさ加減にカンシャクをおこして平手で顔を叩いた父にさからって、私を抱いたまま家中逃げまわってくれた、母親がわりのようなマルシャは領事館の敷地から出ることも出来なかった。父は白系ロシア人のマルシャを日本につれて帰るため方策を早くから考えて色々と手をつくしていたが、結局密航以外の手段はなかったのである。

そして昭和十二年正月、私と母は凍土のシベリアから緑濃い松原がつづく港町の敦賀に帰って来た。そして父の故郷福岡には信じられぬ程暖かな日ざしが照っていた。目に入るものすべてがあまりにロシアとちがうのと、九州なまりそのものの日本語にとまどって、私はおろおろしていた。私たちより一年前に帰国していた兄はウラジオストックからいっしょに連絡船に乗って来た、と思いこんでいた父が姿をみせなかったので、驚愕のあまり青ざめていた。

私たちがひきあげた最後の船には父と数人の領事館職員は乗船していなかった。それが何を意味するのがわからぬまま私と母は荷物検査の列にならんでいた。何もかも大混乱の引揚げ現場の税関では、荷物はチリ紙、ハンカチまで検査され、私が一年生の時からかきためていた漢字練習帖、スケッチ帖、日記帖、テスト帖、両親がとってくれた幼年時代からのアルバム帖はすべて没収され、私はワンワン泣いて抗議したが、ゲペウ族を相手にするとホントにロボットとけんかしているようなものだった。

兄はゲペウのことは知りつくしているからいいよ、と私をさえぎり、母に向って
「お父さんはどうして乗っていないの?」
「誰が残ったの?」
「帰ることは出来るの?」
と矢つぎ早やに質問攻めにした。

最後に私がみた父は、職員の人々と共に波止場の街灯の下で何か書類の束をひろげて相談しながら、ふりはじめた雪の向こうに次第に遠ざかって行った。
「とにかく子供たちを早く船にのせろ!」
と船員たちがやって来て、混乱の荷物検査から私を含めて四人の子供をひっこぬいてタラップをあがって行った。その甲板から振り返って、遠のいてゆく父の姿を見たのが最後だった。

何故父は後はもうないといわれている連絡船に乗らないのか、これからどうするつもりなのか、五年生だった私には五里霧中だった。母にも何ひとつ確かなことはわからず、兄が心配しているのはもっともだがわからないものはわからないままだった。

日本での生活の眠ったような静けさに少し馴れて来た七月頃、突然父からハルピン経由で手紙が来て私たち一家はほっとしたと同時に、「無傷でロシア領を出られただろうか?」と心配した。最後の連絡船に乗れなかった時は漁船をやとって非合法に出国するか、ソ密国境を流れる松花江を渡るしかない。冬は松花江が凍結しているから出来ないことはないが、当然国境警備隊(日、ソ両サイド)の攻撃の的になるだろう。心配してもきりがないことを心配している家族をさんざん待たせたあげく、三月末に近い頃父は五体満足の姿で帰ってきた。

私は父の口から通訳であれ、何であれ、只の一度も仕事に関して説明されたことがなかった。女の子でしかも虚弱児で無口だった私に、少々世間並みではない仕事について話をする気にはならなかったらしい。しかし父は兄にかなりくわしく話をした、と言う。

たとえばどうやってソ連を脱出できたか?と言うと、父たちは誰もが必ず「不可能!」と叫ぶ、松花江渡河をやったらしい。「不可能」と人が叫ぶ理由は、冬の積雪で山も原野も河岸も河の流れも白一色となり、どこがどこやら全くわからないからだ、と言う。河だって凍結したと言っても複雑な水の流れによって氷の厚さが一定ではない。とにかく常にシベリアおろしのふきすさぶこの地方は、一木一草から雪のつもり方凍りつき方まで油断のならない変化を抱えこんでいるのだ。

とにかく父たちは監禁同様のあり様で籠城していた日本領を、ある大吹雪にこっそりと脱出した。シベリアの吹雪と言うものはひろい原野を渡ってくる強風と雪のため、予想もつかぬ程の強い力を持った、巨大ブルドーザーになって押しよせて来る。そんな時住民たちは誰一人家の外に出て行かない。特に子供の外出は厳禁だった。毎冬の大吹雪で白い風の渦にまきこまれて行方不明になる子供の話をイヤになる程きかされたものだった。

しかし、そんな危険な夜でないと監視の眼をのがれることはできないことは未経験の私にもわかった。兄の説明によると、父たちは五、六人を二人ずつにわけてロープで腰をむすび、体がうきあがらないようにしたらしい。風と雪は一旦ふぶきはじめると正味一週間つづくのがふつうだったが、人目をさけて町を出て松花江岸にたどり着き、凍った河の中の安全な通路を探しあげるには日数は少々足りなかった。幸いにも父は河を渡って日本側の警備隊にころげこむことが出来たが、ロシアの国境警備隊に狙撃されて、遂に姿をみせることが出来なかった人たちもいたらしい。それが誰なのか、兄は決して名前をいわなかった。

「マルシャはどうしたの?無事に逃げたの?」
父や職員たちと共に、領事館にカンヅメになっていた彼女は、領事館を出てゆく時もいっしょだった。但し、彼女の友人のパン屋の店先まで来て、マルシャは無言で手をふり、そのパン屋の軒下に立った。

轟轟と天地をゆさぶるような吹雪の音の中では人間の声は何もきこえない。誰一人何も言わない中でマルシャは、一人一人の肩を抱き背中を叩いて「神の御加護がありますように」とささやいてくれた。その彼女の姿は一瞬のうちに白く厚い雪のカーテンにかくれてしまった、という兄の話をききながら、私はいつのまにか声を絞るようにしてなきはじめ、やがてはげしい号泣となり、自分でとめようとしても吹雪のうなりのように涙とうめきがつづいた。兄はそこにすわったまま深くうなだれていたが、やがて無言で立ち上がって家の外に出て行った。