日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

戦争と兄 その1

戦争の時、十二才で日中事変がはじまり、二十才で「敗戦」日の八月十五日を迎えるまで、私は一体何を考えていたのだろうか。たしかに何かしらを考えてはいたが、人にそれを打ち明けたりすることはなかった。

昭和十二年一月に北部九州の小さな村にやって来た私は、それまで暮らしていたソ連の港町、ウラヂオストックとのちがいに驚愕しっぱなしだった。

先ず、私は日本語の書きことばしか知らず、集団言語としては日露混成語が出て来るし、畳の生活にも馴れなかった。まごまごしているうちに盧溝橋事件がおこり、本格的な戦争がはじまった。しかし、私の記憶の中では、日中戦のはじまりより数倍の注意と関心を持って見守っていたのが、昭和十四年に勃発した「ノモンハン事件」だった。

当時の日本の一般社会では、「ノモンハン事件」は割合単純な日本とソ連との国境紛争だ、と思わされていて、軍関係者以外は誰も真剣に意識することはなかったし、軍部もノモンハン事件を詳細に報道せず、うやむやにしてしまった。しかし、我が家では父と兄はあくまでソ満国境にこだわり、私も多くの関心を持っていた。

父はウラヂオストックの日本領事館の現地通訳が本職だったが、それと共に情報工作員の仕事も同時進行させていた。そして、その主な目的は、当時ソ満国境に配備されていたソ連軍の人数と、武器の質と量を人知れず調査することだったらしい。父はしばしば、ウラヂオストックからブラゴエ、ハバロスク、と言う町に旅行したが、その時必ず私たちをつれて出かけ、表面的には家族旅行の形式をとった。

私は幼かったから実際に何かの役に立つことはなかったが、兄は父の意を汲んで、男の子らしくあちこち走り回っては、トラックや車の数をかぞえていた。ほかにも武器庫らしい建物の見分け方や、父から色々と学んでいた。そういう家族だったから、ノモンハン事件で戦った日本軍とソ連軍双方の武器の種類とその数量が大いに気になったのである。昭和十四年から十五年にかけて、日本は「中国進行問題」でほぼ国際社会全体を敵にまわしてしまったような感じだったのが、私には大いに気に入らなかった。そんな時、兄が、父から聞いたと言うノモンハン事件の状況をしらせてくれた。

「武器が古くてどうしようもなくて負けたそうだよ。戦車のできがちがいすぎたって。」
父は時々古い仲間と話をするらしく、新聞とは関わりのないニュースにくわしい。
「しかし新しい戦車は金がかかるだろうね。」
「お金がない時は何もしないことがいいね。」
兄が中学四年、私が女学校二年だったが、その頃、こんな話をしていた中学生、女学生は他にいなかった。
 
私は無口で目ばかり光らせ、周囲を観察しつづけていた奇妙な少女だった。戦争がはげしくなり、負け戦が目立つようになるに従って、私の頭の中は更に考えることが山のように増えた。私は、毎日、ふくれたガマ蛙の如く一ヶ所にすわりこみ、ますますふくれ面になって考えこんでいた。

考え事の中心は、
「何故死ななければならないのか?」と言う疑問であり、
「玉砕のすすめ」
ばかりを酒に酔っぱらった如く若者達におしつける大人たちへの疑問であった。

「玉砕と言うのは追いつめられての自殺にすぎないのではないか?」
あくまで私個人の都合なのだが、たまたま私は骨の髄まで自殺反対の人間だったから、考え事が増えるのは当然であった。

「玉砕は日本人にしか出来ない美しい、清らかな死に方だ。」
などと言う大人をみると、
「勝手に先に死ね!」
と叫びたくなるのである。
私が筋金入りの自殺反対、玉砕反対である理由は、私自身が生後数日で急性肺炎を起こし仮死状態となって、やっと生き返った赤ん坊であったことだ。そのあとも、
「世にも稀な、超々虚弱児」
として苦労の連続の成長過程だった。常に一年の半分は病床につき、体に白血球やカルシウムが不足で、肺にはかげがある、とかで問題だらけだったのである。

「到底十才まで生きられないだろう」
と言うのが周囲の人々の一致した意見だった。当時の大人たちは子供に対して絶対的に優位に立っていたから、見舞いに来て、私の枕元で私の虚弱体質についてあれこれあからさまにうんちくを傾けるオバサンもいた。
なかには、
「まあ、生きているうちに好きなものを食べさせてやることですじゃ」
とにこにこしているおじいさんもいた。
そう言う環境の中で私は全く逆の方向にもえあがり、
「絶対生きてやるからね!」
と決心したのである。

幸か不幸か、私は生まれる時、父方の祖母の負けずぎらいと、「我が道をゆく」タイプのDNAをしこたま受けついで生まれたらしい。
一度もへこんだことのない、がんばり人生を送った祖母は、私が亡くなる前に亡くなっていて顔をあわせたことはなかったが、私は彼女によく似ていると人々は言った。笑い方や物の言い方、そして腹をたてた時の三角眼などはそっくりだそうだが、とにかく祖母のDNAは、私の超虚弱人生をがっちり支えてくれたのではないか、と思っている。

「もし私が死にそこなって仮死状態から生き返ったのなら、人の三倍は生きなければならない」
と、自分だけが納得する理由を腹にすえて、子供の時から戦車なみの精神力で生きて来た私に
「戦争なんだからいさぎよく死ね!」
と説教したってムダなのだ。

しかし、日本の片隅でふくれっつらの私一人が何を考えていようと戦争は終わらなかった。それどころか、うっかり
「私は死ぬもんか!」
などと口走ると、たちまちスパイだ、国賊だ、と大さわぎになり、両親、家族、親類全部に迷惑をかけることがわかっていたから、私はますます寡黙になった。 

そして、昭和十九年春、山口大学(旧山口高商)に在学中だった兄が学徒兵として招集され、海軍入隊が決まったので、準備のために家に戻って来た。許された期間は七日間。集合地は佐世保。行く先は不明。

巷では、誰言うとなく、今回の学徒出陣は、兵士も将校も不足したから「補充」のために招集したのだ、と言う話が真剣にささやかれていた。父も母も沈痛な顔で一ヶ月も前から
「ひょっとしたらあの子は特攻にとられるかもしれない」
と心を痛めていた。

「特攻は志願なのか?」
「命令か?」
と言うような疑問を持った現代の日本人から時折聞かれることなのだが、一言で言えば「両方」、つまり「ダブルスタンダード」だった。表向きは志願の形を作り、裏では命令の形で若い者を動かすのである。

Aの形式で実際はBの動きをする、と言うのは、戦時中のあらゆる日本人の組織が、軍、官、民を問わずやっていた、と思う。若い者を動かすには、先ず整列させ、そして、任務についてその重要性を説明する。最後に、
「志望者は一歩前に出よ!」
と命令する。この時前に出ないと、後で「つるしあげ」と言うリンチめいた暴力が待っていることもあるから、皆一応「一歩前」に出ることになるのだ。

最近話題になった、戦争末期の沖縄戦で民間人の家族に手榴弾を手渡して、「自決」を命令したとかしないとか、ということを争っている軍人さんの話ほどコッケイなものはない。従軍慰安婦として女性をかきあつめた折の公的書類がないからそんなことはなかった!!と言っている人たちと同じ位アホらしい。
 
軍人が、負け戦の戦場で手榴弾を誰かに手渡したら「死ね」と命じたことであって、他に何があるのか?

戦時中の「公的書類」についてもおかしい。
あの八月十五日からの一週間、日本中のあらゆる組織や機関で燃やした書類がどれだけの量あったか、見たこともないくせに、「書類がないからそうした事実もなかった筈」などとノーテンキなことを言うのはやめてほしい。バーカ。

とにかく、口には出さなくとも、日本軍が負け戦を戦っていることは国民は百も承知だったし、そんな戦場へ息子を送り出す家族や親戚は勿論、送り出される息子も又、にぎやかに笑って出て行く気分ではなかったと思う。

人の噂では、一人息子やあとつぎの長男に対しては、召集するのに手心を加えるとか、理科系の学生も貴重な人材なので容赦してくれるらしいとか、口コミでひそひそとささやかれていたが、日本海軍がミッドウェイ海戦で大敗したあと、アッツ島守備隊玉砕、ガダルカナル敗退と、次から次に敗戦がつづき、日本全土が異様に静まりかえってしまっていた。風だけが山の木々をゆさぶり、天に向かって何ごとかをささやきつづけていたような気がする。

兄たちが召集されたのは、まさにそう言う時だったのである。