日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

水漬く屍と死体研修

昭和十八年、私は女学校を卒業して女子挺身隊に入った。志願入隊だと、つとめ先の工場をある程度えらべる、ということで、父が手続きして福岡市の東の外れに急造された海軍系の飛行機工場に通うことになった。
 
兄がその二ヶ月前に学徒兵として海軍にとられたので、両親共、私を遠くへやりたくなかったのだろう。十八歳の私は鼻っ柱だけは強い幼稚な少女として工場にやって来たが、一年下か、同年の少女ばかりいる旋盤部所属となり、否応なくその少女隊十五人をひきいる女子挺身隊の班長に任命されてしまった。

そして、あっと言う間に女子挺身隊幹部としての訓練研修に参加を命じられた。指定された集合場所の福岡市内の国立大学医学部大講堂にの行ってみると九州全域から集まって来たらしい女性たちが黒山如くひしめきあっていた。三百人をこえていたと思うが、ほとんど二十代半ばから三十代の大人で、私のような十代の連中はひと握りしかいなかった。

研修とは一体何だろう?とキョロキョロしているうちに、気がついたら医学部の一隅の解剖教室の中の解剖台の横に立って医学生の解剖を見学していた。その室には解剖台が十台程ならび、ミイラみたいな死体があって、医学生が二人ずつメスで体をいじっているのは半分の五台位で、あとはカラッポで誰も側にいなかった。室内はフォルマリン臭で一杯で、アタマも鼻も、そして胃までヘンになりそうだった。

何のために女子挺身隊の女たちがこんな所にいるか?というと、研修プログラムを立案した海軍の教育班がある時考えたらしい。これから予想出来る熾烈な空爆下で、多くの死体を見る度に気絶するようでは幹部として使えないから、何が何でも死体に馴れさせることが必要不可欠だ、ということで解剖学教室に送りこまれたらしい。

死体と言ってもどれもミイラか、あじの開きみたいにカチカチで血などは流れていなかった。しかし、当時の日本女性は自由に外をフラフラ出て歩くこともなかったし、まして死体、それも男性の裸など見たこともなかったから、誰にしたってケロッと見学できるわけがなく、あちこちで貧血をおこしたり、トイレでゲエゲエやったりしていた。

幸いだったのは、主催者側が三百人の女の子たちをいきなり全部解剖室や地下の保存死体収容室につれて行くような愚行をしなかったことだ。三百人を訓練コース毎に三つにわけ、更に二十人の小グループにわけて、一人ずつ中年の男性を子守役としてつきそわせた。

モンダイはこの子守役の資質にあまりにも個人差があって、当然の如く、民間人の子守役の中には統率するべくまかされた筈の女の子たちと共に目まいをおこし、ゲエゲエやった者もいた。逆に数人まざっていた海軍の下士官は強者揃いで、
「こんな死体はホンモノと程遠いゾ」
と実際の戦場での死体収容の話をきかせてくれた。

私は自分のグループの子守役を、「多分、どこかの学部の事務員だネ」と見破って、となりのグループで喋っていた海軍らしいおっさんの話をメモしはじめた。

暫くして、私はすぐ側の解剖台でメスを動かして解剖をしている医学生が、左手で分厚い解剖書をひらいて必死の形相でブツブツ呟いているのに気づいた。広い解剖教室にその時実際に解剖をやっていた学生は十人位だったが、全員、わき目もふらず、ひたすら死体解剖に没頭し、まわりでざわざわと吐き気と戦っている女性群を眺める者は一人もいなかった。

室はホルマリン液とアルコール消毒液と正体不明の悪臭にみちているが、そのド真ん中でメスの手を休め、右手で解剖書の頁を押さえ、左手で握り飯を食べている学生をみつけた時は、不覚にも朝食が胃の中で大回転をやったような気がした。

あとで聞いた所によると、学生たちの授業時間は学徒出陣の時期がせまって来てかなり短縮され、従って悠長に解剖に時間を浪費出来ないのだそうだ。

三日間続いた我々女子挺身隊の研修はいよいよ最後の段階に入り、全員が医学部の大講堂に集められた。いつも容謝のない文句をあびせて女たちをビビらせていた指導主任教官の海軍将校(名は忘れた)が最後のあいさつをした。それまで老いた将官たちのダラダラ訓話でうんざりしていた我々の耳にとびこんで来たのはたった4行のあいさつだった。

「(一) 相当に不器用者が多かったが、無事に研修を終えたのは
     祝着至極である。
 (二) 年令にくらべ全員体力の衰えがひどいから教えた鍛錬法
     で日々鍛えよ。
 (三) 頭脳の優劣を競うよりも、日常に於いて常に鋭い注意力
     をみがき銃後の暮らしをしっかりたのむ
 (四) 自分はこの任務を最後に戦地に立つので皆の健康と幸せ
     を祈ってここに別れをつげる。達者で暮らせ。」

彼は一見三十才前後に見えたから、ひょっとしたら海軍大尉だったかもしれない。簡潔きわまりない、電報みたいなあいさつを残してさっさと演壇を去ってゆく彼に向かって突然怒涛のような拍手と
「うおーっ」
という叫び声が湧きたった。信じられないことがおこったのである。

思いもかけない拍手と大喚声に、不思議そうな顔でふりかえって場内を見まわした彼は、二、三歩演壇の端に歩いて来て前列にすわっている女性たちに何か問いかけた。

あとできいたら、前列にいた人たちは、とたんにパッと総立ちになって口々に
「歌を教えてください!!」
と叫んでいたのだ、と言う。
 
あっと言う間に大講堂一杯の挺身隊員たち全員が口をそろえて「歌!歌!」と叫んだ。

もう名も覚えていないし、顔だちも忘れて久しいが、彼の体の動きは記憶に鮮明だった。海軍将校、特に江田島海兵出身者の特色のようだが、彼らは体をゆらさず、すーっとまっすぐ歩く。だから「帆かけ舟」というあだ名が多かった。彼はその歩き方で演壇にもどって行った。そして、背後の黒板に大きな文字で歌詞を書き、正面に向き直って彼は言った。

「いいか?俺には時間がない。一行ずつ歌ってやるからそのあとをつけて歌っておぼえろ。三回くり返すから三回で頭にいれろ。そして四回目はお前たちだけで歌ってきかせてくれ。いいな?」
三百人の我々は喜び勇んで「はい!!」と叫んだ。

彼が教えた歌は艦隊が横須賀港から出撃してゆく別れの歌だった。

「勇ましく 出港用意の ラッパが響きゃ
 何のみれんも残しゃせぬ
 水漬く屍とこの身を捨てて
 今ぞ のり出す 太平洋

 住みなれし 母港よさらばと みかえる空に
 かすむ三浦の山や丘
 椿さくかやあの大島を
 こえりゃ 黒潮 渦をまく」

私たちは正味三回でメロディも歌詞もおぼえた。そして四回目に自分たちだけで歌いあげた。その勢いで五回目にとりかかった時、彼は右手を高くあげて左右にふり、帆かけ舟のようにすーっと去って行った。
 
私は今でもあの歌を音譜や伴奏なしで歌うことが出来るが、めったに歌わない。

昭和二十年に入って熾烈な空襲が毎日、毎時間、定期便の如くあらわれると、耳によみがえって来るのは「水漬く屍とこの身を捨てて…」という怒涛のような三百人の歌声だった。死体研修を指導した、帆かけ舟の彼は今やほんとうに水漬く屍となっているであろうし、我々も又、生きてこのB29定期便から逃げきれる、と到底思えなかった。

そんな時、私の心の中に浮かんだ想念は、嘆きも恨みもなく純粋なバカらしさだった。戦死が名誉だなんて信じられんワ!死んだら皆仲よくいなくなるだけじゃないのサ!日本列島スッカラカンで誰もいなくなるヨ、ギャハハというのが実感だった。