日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

父の仕事 その1

兄の葬儀の日の空に流れて消えるちぎれ雲を長い間みつめながら、私がもう一つ考えたことは、
「一体、私は兄のことをどこまで知っていたのだろうか?」
という疑問だった。

兄の肝臓がいよいよ悪化してかつぎこまれた専門病院で、医者が呆れて、「これ程、純粋にアルコールでやられた肝臓のケースはみたことがないなア」とため息をついた、という話をきいた。私は兄がなしくずしの自殺をしたのではないかと疑ったが、死ぬまで快活さを失わずに逝った、という話をきくと、「自殺」などある筈がないように思えた。

兄は子供の時から「明るい性格」、「明朗闊達」、「頭の回転が早い」などと、ほめられることが多かったが、彼が外に向かって見せていた人間そのままであったか?と言うと、もう一つよくわからないのである。

私たち兄妹は同じ両親の許に生れ、いっしょに育ったが、あまり似ていなかった。兄は万人がみとめる「健康優良児」で、場の空気を読むのが早く、社交的だったが、私は一年の半分を病床で暮し、家族と語りあうこともめったにない、陰気で無愛想な女の子だった。

幼い時から兄について強く印象づけられたのは、彼の「神わざ」みたいな人づきあいのうまさだった。私が物心つく以前から私たち家族にピタリとはりついてはなれたことのなかった、ソ連の秘密警察の刑事たちに対しても、兄はものおぢもせず、すぐに仲よくなった。彼らが日本人にはりついて動静をさぐるその目的は、「出来るだけ早く、ウラヂオストックという大切な極東軍基地から日本人を追放したい」ということであって、そのためには国際法スレスレの「スパイ罪」をでっちあげ、有無を言わせず「国外追放」か、「行方不明」か、「監獄ゆき」の刑にした。

ソ連の秘密警察は何種類かあって、その中で子供の私もはっきりと記憶していたのは「ゲペウ」という名称の一大情報工作員組織だった。ゲペウに所属している人間たちは、一言で言えば、決められたルールに従い、自分たちの目的にむかって「機械」の如く正確に動き、必ず成果をあげる「ロボット集団」として恐れられていた。外国人もロシア人も区別なく、邪魔になれば拉致して極北に近い監獄にいれてしまう、と言う話が巷でヒソヒソ、ささやかれていた。

私が四才になってはじめて参加した在留日本人主催の運動会には、ゲペウではなくウラジオストック市の警察から二人の刑事たちが監視員としてつきそっていたが、言葉がわかる通訳の父の側にピタリとくっついてはなれなかった。従って私がすわっている場所の近くにはいつも二人のジャガイモみたいなロシアのオッさんがすわり、時々私に話しかけ、何やかやと質問したが、お互いに何もわからなかった。

どこからか兄が勢いよく走って来て、私を会場の中央のテントのお茶のみ場につれて行った。その時はじめて、ジャガイモたち二人が父の行動をさぐるために来てるのだから、質問には注意して答えるか、一切だまっているか、どちらかにした方がいいヨと兄は警告して、お茶をのませてくれた。

私のウラジオストック時代の思い出は、こうした監視にやって来てさまざまの人間模様をみせてくれる刑事たち――ひょっとしたらその世界ではえらいスパイかもしれないおぢさんたちを観察することが、生活の大部分を占めていた。小学校に通うようになると、二人の刑事は兄と私を毎朝尾行して日本人学校の門までついて来た。例によって兄の説明をもとめると、 
「ロシア人の中にいるスパイが、子供に何かを手渡して信号を送るのを見張っているのだから、誰からも何もうけとるなヨ」 

同じことをほぼ毎朝、登校する前に父からきびしく命じられていたが、一年生になったばかりの私にはすべてが「物語り」の中の出来ごとみたいだった。父は、毎朝決って、ランドセルをせおって出てゆく私に、
「誰かが名前をよんでも決してすぐに返事するな。相手をたしかめろ」
「相手を知っていても、しらん顔をしろ」
「道におちている物、又は人から手渡される物は決して受け取らない」
と言いきかせた。

登校する途中で兄に、
「何故父さんはあんなことを言うの?」
ときいたら、兄はまじめな顔で、
「たとえばさ、読んじゃいけない本とかをわからないで拾うだろ。そしたらそれだけでスパイだ!
とされちゃって、どこかへつれて行かれるのさ。何も悪いことしていなくてもロシアの警察、特
にゲペウってこわいんだから・・・・・」

そして兄は、私も会って話したことのあるタシロさんという在留日本人の一人が、散歩の途中何かを拾ったとかでそのまま拉致されて帰って来ない、というコワイ話をしてくれた。
「ああ それで父さんも帰って来なかったんだね」
在留日本人がスパイ容疑で行方不明になると、父もロシア側によびつけられることが多かったが、逆に拉致の不当性を叫びたてて父が押しかける時もあったらしい。

昭和五年位から改めて、毎日が騒然としはじめたが、私が三年生になるまでは、警察関係の刑事たちが担当していた様子で、わりあいふつうの「人間刑事」が多かった。三年生の終わりの真冬の二月頃、雪を踏み固めた細い道を歩いて学校に向っていた私は、その細い道を踏み外して道ばたの新雪の谷におちこんでしまった。シベリアの雪はふつう一週間位ふりつづくから、固められてない新雪は底なし沼か、深さ二米の雪の海と同じであった。

どんなにもがいてもずぶずぶと沈んでゆく自分の体に絶望しながら、顔が雪の海におおわれてゆくのを何とも出来ずにいた私をのぞきこんだ尾行中の刑事の一人が大声でどなった。
「手! 手をのばせ!」
彼は固い道に自分の足をのばしてひっかけ、両手で私の右手をつかまえた。そして信じられない程の力で雪に埋まった私をじわっじわっとひっぱりあげはじめた。他の通行人も足をとめ、彼の足がすべらぬように押さえたり、もう一方の私の手をひっぱったり力をつくしてくれた。

やっと固い道の上にひきあげてすわらされたのはいいが、刑事をはじめ救助に手を貸した通行人が各自、私にこんこんと説教をはじめたのには弱ってしまった。ロシア人位、議論や説教が好きな連中はいないから、いざはじまると長いのである。私はブルブルふるえながらきいていたが、さすがに刑事たちは、途中で話を打ち切って私を日本人学校に送り届けてくれた。

いつも私の「超のろま」ぶりに常に手を焼かされながら何とか対処してくれていた兄は、中学受験準備のために一月はじめの船で日本に帰国していてその場にいなかったのである。

そしてその年の六月、さわやかな初夏の風と共に、私や領事館をとりまく警察官たちの種類が次第に変化しはじめた。夏休みが終る頃には全員がゲペウのメンバーのロボット人間に変っていた。