日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

占領と英語 その2

顔役は日頃のおちつきはどこへやら、そわそわと汗をふきながら、
「すまんけどなあ、進駐軍の基地に二日間程労働奉仕に行ってもらえんだろうか。」
要するに米軍が、近くの航空基地に進駐して来て、設営作業に入ったが人手不足なので近辺の町村から若い労働力を募集した、と言うわけらしい。しかし、近辺の町や村に屈強の若者なんている筈がない。終戦になってまだ二ヶ月もたっていないから、生き残りの兵士たちは、運がよければ復員船にゆられている真最中である。村に現在いるのは女子供と老人だけであった。

「アメリカさんが言うには、十八才以上四十才以下の男を集めてくれ、ちゅうことじゃが、そんなことできるわけない。どこの部落も男は戦死してしまったか、まだ戦地にいて、帰る保証もないんじゃ。」
顔役の老人はしゃべっているうちに感情がこみあげて来て、涙をポロポロこぼした。

だまってきいていた兄が、なだめるように手をひろげて、 
「僕で役に立つなら行って何でもしますから、心配しないで下さい。大丈夫ですよ」
そして、家族が心配顔で物も言えずに突っ立っている前を、兄は海軍の作業着に着替えて、役場の人と共に米兵が運転するジープに乗りこんで、手をふりながら去って行った。

そしてそれきり二週間たってももどって来なかった。私たち家族の心配は恐怖に変わり、父は再三、役場に行っては「うちの息子はどうなったのか?」と問いつめた。兄は司令官と約束した通り、「戦争犯罪人」として逮捕されても「他言無用」と命じられたことについては死んでも言う筈がない。ひょっとしたら米軍に拘束され、日夜きびしい尋問をうけているのではないか?と家族はいても立ってもいられなかった。正直言って兄は帰宅以来、極端に無口で、自分の過去の行動、生活、軍の動向、その他初期の飛行訓練で乗った練習機の機種名でさえ口に出さなかった。山形から歩き通した旅の話以外、だんまりを続けていたのである。

役場も心配して、係りの職員を米軍基地に派遣してくれたが、兄に面会出来ないのだそうだ。父は、又問いつめた。
「何故、あうことが出来ないのか?」
「仕事が忙しいのだそうだ。」
「一体、何の仕事をしているのか?」
「最初は、皆と一所に土木作業をやっていたのだけれど、二日目には全部のグループの作業現場をまわって、通訳をするようになったらしいです」
「通訳?」
父は仰天した。

三週間目の夕方、役場の人と共に顔役のおぢさんがやって来て、
「もう安心です。土木作業もきりがついてこの週末に息子さんは帰って来ます。色々と働いたり、通訳をしてくれたり、一人で何役もこなしてくれて、ホントにお礼の申しあげようもないです。」
「通訳って英語の、通訳ですか?」
私が確認すると、顔役のおぢさんが、ひときわ大きな声で、
「そうそう。中学で習わなかった英語、あれよ。何しろいくら土木作業と言っても、アメリカさんの注文があれこれあって、それを英語でベラベラやられたら、作業どころぢゃないですもんな。そこへお宅の息子さんがあらわれて、両方の言い分をきいてベラベラッと説明したら、うんわかったということになるとですよ。他に通訳がおらんし、誰一人英語はわからんし、一時どうなるかと思ったネ。何故かわからんが、お宅の息子さんの英語はよくわかる、とアメリカさんたちが喜んで、ひっぱりだこですタイ」
「へえ?!」
私と両親は、文字通り絶句してしまった。

顔役のおぢさんは、父と同年輩で、同じ村の小学校に通った幼ななじみらしいが、父が若い頃にロシアに渡り、ロシア語の通訳をしていたことをよく知っている様子だった。
彼のアタマの中では、
「父親―ロシア語の通訳、息子―英語の通訳―父の後つぎとして通訳ができて当然」
と言う図式がかっちりと出来ているらしいと言うことはわかったが、「ロシア語と英語が全くちがう外国語である」という認識がまるでないので、時々父が困った顔でボソボソと説明していた。

三週間後にもどって来た兄は、昨日アメリカから帰国したみたいに、英語がデカデカと書かれたダンボール箱に、英語名入りかんづめ類とバター、チーズ、お菓子、粉末ジュース、その他の食糧品を山のようにいれてジープの後部座席にすわっていた。運転席と助手席には金髪に青い目の若い兵隊が二人。
当時の社会の感覚としては、「米兵をみたらすぐ逃げろ!!」と言うのが常識だったが、私は、兄がその米兵たちと何やら喋りながらおりて来るのをみて、
「ナンノコッチャ!!」
と、バカらしくなって逃げるのはやめにした。
ジープが去ったあと、兄はダンボール箱を玄関にはこびいれた。そして奥から出てきた両親に淡々と告げた。
「これは、三週間の労働と、通訳に対してアメリカさんたちの感謝のキモチだそうです。」

そしてその日以降、兄は頻繁に通訳として呼び出され、次第にその頻度がふえていった。占領された日本で、「泣く子もだまる」程の権力を持った「連合軍司令部」の「通信検閲局」に就職したのは昭和二十一年一月で、日本人としてはかなり早い時期だったから、非常に目立った。
「一体、まともな英語が出来るのか?」
「出来るふりをしただけのサギ師ぢゃないか?」
「アメリカヤロウたちにゴマをすってだまして仕事をとっている」
等々の非難中傷をあびせられたらしい。

戦時中は100%の外国語禁止で、特に明治以来定着していた和製英語は一切使用禁止の時代だったのに、兄はどこで英語力を養ったのか、だれにも見当がつかなかった。
本人に問いただすと
「オレ、山口高商をうける時、うすっぺらな英文法の本で四日勉強しただけでね、入学したら、ほとんど忘れちゃったヨ。只、通訳やりだしたらその英文法がちゃんと生き返って来てね。喋ると通じるから、俺自身もフシギ千万だと思うヨ。ハハハ」

フシギだろうと、何だろうと日本全土の道路標識が英語に占領され、金髪や茶髪の生まのガイジンたちが町にあふれている時代が現実になってしまったのだ。まがりなりにも「英語」と「日本語」の橋渡しが出来れば、何とか仕事口をみつけることが出来た。

兄の紹介で、私も通訳見習に一時は頭をつっこんでみたが、途中で、より堅実で安全な「英語電話交換手」への道をえらんだ。
将来、何がどうなっていくか少しも未来像が見えて来ない占領下の日本は、期待とスリルと落胆が怒涛のごとくかわりばんこに押しよせる、危険な海岸のようなものだった。私は危険をさけて、現在のNTT、当時の「逓信省」の「英語特別電話局」に入り、やがて自分独自の学習方法で、発音と英語全般をマスターした。

「電話交換業務」を英語でこなすのが苦労せずに出来て、アルバイトとしてはじめた通訳もけっこう繁昌しはじめた頃、私は突然、自分の英語の特徴が、兄のそれとよく似ていることに気がついた。
第6章の中でも書いているように私たちは今で言う「帰国子女」で、兄は五才から八年、私は三才から九年、シベリアのウラヂオストックで育った。だから、何かにつけてロシア語とロシア文化の影響が色濃く残っていた。

先ず、二人とも声が大きくて、はっきりしている。そのはっきりした音声でどんな言葉でも、物おぢしないでしゃべる。少々、まちがっていようと、ヘンであろうと気にしない。
但し、用件については、絶対に相手を納得させる。申し分なく自己主張が強い。
今にして思えば、私たち兄妹は、「ロシア語」と言う、芸術的とも言えるおおらかな言葉をしこたま叩きこまれ、帰国後は「日本語」と言う、あでやかだけどさっぱり「顔」のみえない美人のような深遠なることばにふりまわされてやっと大人になった、と言う気がする。

戦後の一時期、たまに両親のいる実家に帰ると、兄もたまたま帰宅していて
「よオ、久しぶり」
と皆で夕食のテーブルをかこんだ。そしてふと気がつくと話題は、もっぱら英語と日本語の「摩擦」の谷間をいかにうまく渡り歩くか?と言う点に絞られていた。当時、兄も私もサイドビジネスだった通訳業が次第に本格的なビジネスに変化している最中だったから、「いかに異文化摩擦を、ことなく収めるか?」と言うテーマは、切実な問題であった。

他の家庭とくらべて少々変わっていたのは、父も又、長いことプロの通訳であったことで、明治時代からロシア語と日本語の谷間でさんざん苦労した父の経験は、私たち兄妹のそれとはケタちがいだった。
モスクワの語学校だったら日・露語辞書ぐらいあったかもしれないが、遠隔の地、シベリアのウラヂオストックでは辞書など容易に手に入らなかったらしい。困った父は自分で、自分専用の辞書を作り上げた。それは大変な努力のたまものだった。

私たち兄妹は幼い頃から居間の本棚の一部を占領していた四十冊の大型のノートの存在が気になってしかたがなかったが、小学校に入るまではさわらせて貰えなかった。
そのノートは厚さ2センチ、縦30センチ、横21センチ程の大きさで、表紙は濃い茶色でどっしりした厚味があり、いかにもロシア風だった。子供の目から見ても威風堂々として、全体が巨大な戦車部隊のようにみえた。表紙をめくると、こまかいロシア語と日本語が青インクと赤インクでぎっしり全部の頁を埋めつくしていた。所々に挿絵もあった。

私たち家族の中で、たしかに特殊な通訳の才能があったと思われるのは兄で、私は才能と関係なく、たまたま外国で育ったために日常的に通訳が習慣となった子供にすぎなかった。
我が家で最も頭がよく、学者のように明晰な考え方をするのは父だったが、通訳にはむいていなかった。
昔、有名なロシア語通訳だった、故米原万里女史は、自分が出版した本に
「不実な美女か?貞淑なブスか?」 
と言う二つの文をならべてタイトルにした。
ほんの少しでも「通訳」や「翻訳」の世界に足をつっこんだことのある人なら、このタイトルはイヤになる程身におぼえがあるにちがいない。
不細工な悪文でも、意味が正確であればいいか?事実がチョイとゆがんでも水もしたたる美女のごとき名文がいいか?
通訳業や翻訳業に従事している人間にとっては永遠のナヤミの種である。

私の父は、常に「貞淑なブス」が好みだった。
そして私の兄は、逆に「不実な美女」に屈する例文を山のようにアタマの中にストックしているらしく、自由自在、適材適所にカッコよく、美女的文章をはめこむ天才だった。
私も兄のようになりたいのは山々だったが、日本語の名文のストックがあまりに貧弱すぎた。そして冷静に考えれば考える程、私は自分が「日本語」を理解出来ていない現実を認めざるを得なかった。アメリカ留学中にも、何度か通訳への勉強を本格的にすすめられたが、私は決してその道を進まなかった。八十才を過ぎた今こそ、「日本語」の「空気」の存在を知り、その匂いがわかり、表と裏もわかり、色や気配がわかるようになったが、何と言っても今ではおそすぎる。プロとしては失格と言えよう。

私や父にくらべて、言葉のプロとしての才能を十二分に持っていた兄は、平成九年十月、七十三才でその一生を終えた。晩年の十数年は、通訳業と関わりのない仕事についたが酒におぼれる日々が重なり、直接の死因は、「アルコールによる肝臓疾患」だった。
葬儀の日はよく晴れた青空に、白いちぎれ雲のかたまりが二つ、三つ、ぽっかりと浮いていた。私はその白く光る雲が風に流されてゆくのを見上げながら、ふと、
「兄は何故、死ぬ程酒を飲みつづけていたのだろうか?」
と考えた。

私がケネディ大統領暗殺で騒然としていたアメリカを引きあげて帰国してみると、久しぶりにみた兄は朝から黙々とウイスキーを飲んでいた。
その時以来、私は、兄がアルコールにおぼれているのか、逃げているのか。何故、飲むのか、を考えつづけて今日に到っている。
そして、確かな答をまだみつけていない。