日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

カナリア挺身隊とアッツ島の歌  その2

昭和十九年二月のある寒い日に、私がいつものようにおぼえて来た歌を皆に伝える段になって突然トラブルがおき、にっちもさっちも行かなくなってしまった。

最初に皆に取組んでもらうのは、歌詞全文を何度か音読してアタマにいれることだった。次に楽譜をみながら曲をつけてうたい、全体を丸おぼえして作業完了、ということになる筈だったのが、音読の最中に皆の声がふるえてとまらなくなった。

その歌詞は全部で九節まである長いもので、全編が北のアッツ島守備隊二千餘人が昭和十八年五月玉砕全滅してゆく状況を歌にしたものだった。

刃も凍る北海の
御循と立ちて二千餘士
清鋭こぞるアッツ島
山崎大佐 指揮をとる

時これ五月十二日
暁こもる 霧深く
突如と襲う敵二万
南に迎え 北に撃つ

陸海敵の猛攻に
我が反撃は火をふけど
巨弾は落ちて 地をえぐり
山容 ために改まる

血戦死闘 十八夜
烈々の士気天をつき
敵六千は屠れども
我又多く失なえり

一兵の援 一弾の
補給を乞わず 敵状を
電波に托す 二千キロ
波濤にうつる 星寒し

他に策 なきにあらねども
武名はやわか汚すべき
傷病兵は自決して
魂魄ともに戦えり(後略)

何とか声を絞り出そうとしても「巨弾はおちて 地をえぐり 山容 ために改まる」とよみ進んで来ると、皆の声がほとんど出なくなった。かろうじてかすれ声で「血戦死闘 十八夜」の四番を読み終わり、五番目の「一兵の援 一弾の補給を乞わず 敵状を電波に托す 二千キロ 波濤にうつる 星寒し」の波濤が言えず全員が号泣し、うたうどころではなくなってしまった。

若い彼女たちが声のふるえをとめられないのは、歌詞が描いているアッツ島のありさまと自分たちが現実に出あっている空襲の被害状況がどこか似ているので、音読中に次第に身につまされて来るのかもしれなかった。

十九年当時、私たちの工場は、相当うるさくなって来た米軍機の空襲をさけて、博多湾に面した広い海辺の土地を捨て、山間部に移ったばかりだった。福岡市の東には日本一と言われた北九州工業地帯が、門司、小倉、若松、八幡の四都市を抱えこんでひろがっており、西の端の長崎県は、軍港として有名な佐世保港と長崎港の三菱造船所、そして大村海軍工廠を抱えていた。そのために相当に早い時期(十八年頃)から、大平洋のどこともしれぬ島からやって来る数機編成の爆撃隊にちょくちょく襲われることが多かった。

福岡は八幡と長崎の中間に位置して、それ程大規模の工場がなかったから多分ほっといてくれるだろうと勝手に考えた甲斐もなく、八幡まわりで来る小規模爆撃隊は、福岡地区を、爆撃や銃撃の練習場と心得て、爆弾を二つか三つ、機銃掃射をニ、三回狙いさだめて来るのは困ったものであった。昭和十九年末から二十年にかけては中国のどこの基地から来るのか、長崎まわりで西からやって来る数機編成部隊が増えたのも不思議だった。

福岡市がとうとう百機をこえると思われる大規模の空襲であと形もなく崩壊したのは昭和二十年六月で、その頃には我が工場は又もや山の中に逃げ込んでいた。今度は谷間ではなく、海軍土木工事突撃隊が三日三晩で山のどてっ腹にあけてくれた横穴式トンネルの中で途方にくれていた。

昭和十九年二月、わがカナリア挺身隊が涙にむせてうたえなくなったのは、当然自分たちの将来もアッツ島の玉砕と似たようなものになるのではないか、と感じたのであろう。

一兵の援 一弾の
補給を乞わず 敵状を
電波に托す 二千キロ
波濤にうつる 星寒し

の歌詞にある如く、どこかに助けを求めても、誰かが動いてこの孤立無援の状態を何とかしてくれる筈もなく、親は側にいないし、帰ろうにも汽車は動かない。バスなんかガス欠で最初から動いていない。海軍からあたえられる食糧は一人、一日十二個の2センチ四角の乾パンだった。その乾パンさえも空襲がつづくとパタッとなくなる。海軍のトラックが動かなくなるからだった。

私は皆をなだめすかしながら曲をつけて行った。ピアノなんかある筈ないから山道で拾って来た木の枝を指揮棒にして、旋盤台をかつんかつんと叩きながら拍子をとった。私の頭の中では女子挺身隊に入隊した第一回目の幹部研修の指導教官だった、顔も名も知らない海軍将校が曲をつけてくれた教え方しか出来なかったが、彼が教えた「水漬く屍とこの身を捨てて・・・」と言う無伴奏のままの曲つけの方法はけっこう役に立った。

四回目で皆の歌声はまとまって来た。ふるえ声もかすれ声もなくなり、しっかりとメリハリがついた歌声は透明で美しかった。私自身も皆と共に歌いながらごく自然に歌詞の意味を考えていた。そしてあることに思い至って、はっとした。

「一兵の援、一弾の補給を乞わず」と兵たちは言うが、もし軍のエライ人たちがこうしてこのまま、彼らをほったらかしたならば、つまる所、兵たちを島においてきぼりにして殺したことと同じではないか! 少なくともエライ人たちが一つの命令を出して兵士をその島に行かせたのなら、最後までめんどうをみるのが人の道というものではないか。

「エライ連中は一寸もエラクなんかない。」

もしこうやってあちこちで兵士たちがほったらかされるようなことがあったら一大事であると私は考えたが、口にできるような時ではなかった。