兄が我家に帰りついた時は、今、まさに死にかけたユーレイの如く、ぼうっと突っ立っていたが、母が炊いた白いごはんと、魚の煮つけとみそ汁をかなりの分量、腹におさめてからは、少しは人間らしくみえて来た。
「どの位食べていないんだ?」
と父がたずねた。
「米をかじったり、野菜をもらって食べたりしていたから、全く何も食べていなかったわけではない。」
と答えた。
「兄さんは、八月十五日どこにいたの?」
私がきくと、兄はしばらく考えてからボソッと言った。
「山形県」
「えっ?」
私も両親も目を丸くした。三人とも夢にも想像していなかった地方であり、勿論行ったこともなかった。兄の短い説明では、山形県の山中に小さな基地があって、そこから南太平洋か沖縄に出撃して行く筈であったのが、不具合がみつかって延期になったのだそうだ。そして、八月十五日が来た。
基地司令官は有無を言わせず、残っている特攻兵たちを集め、ただちに出身地にもどることと、特攻任務や所属部隊名、所在地名を一切口外しないことを約束させた。
「司令官との約束は、絶対破れないから言えない。」
「うん、それでいいから今夜は早く風呂に入って寝ろ。」
父は立ち上がって、自分の室に行きかけたが、途中で振り返った。
「山形から福岡までどうやって帰って来たんだ? 汽車はとまっていたんじゃないか?」
「歩いて来ました」
父は二分程だまっていたが、何も言うことがみつからず、自室へ入っていった。
兄は風呂からあがると、もう眼をあけているのが困難で、そのままふとんの中に倒れこんでしまった。
三日後になって兄はやっと少し落ちついた様子で、山形県の山中の基地で出撃を待っていた時のことをポツリ、ポツリと話しはじめた。彼等は出発の一、二ヶ月前から他の軍人たちとは完全に隔離された生活に入っていて、そこではラヂオも新聞もなかった。訓練に関することと、身辺の整理と、そして、家族への遺書を書き終えることが主な仕事だった。
「珍しく、ゆっくりしていたんだ。」
と、兄は苦笑しながら呟いた。
そして八月十五日の午後、緊急命令で宿舎の一室に集められた時、はじめて「日本敗戦」をしらされた。驚愕のあまり、誰一人声も出さず、呆然自失している特攻グループの若者たちに向かって、先ず司令官が言ったことは
「本日をもって、諸君は特別攻撃任務から解かれ、直ちに復員することを命じる。」
任務からとかれる、と言われても、復員せよと言われても、出撃のみを中心にして丸三年近くを生きて来た若者たちは、そのこと以外の言葉の存在が理解出来なかった。
兄の話しぶりは異様な程ゆっくりしていた。言葉をえらび、話の内容を注意深く組み立て、何を家族がたずねても答えるのに倍の時間をかけた。
それで、家族が理解できたのは、彼らは基地司令官の特別のはからいにより、八月十五日の夜半、数台の軍のトラックに分乗させられて、郷里に向かって出発した、と言う事実だった。
兄は最も遠距離の九州地区が出身地だったが、同じ九州でも福岡からみると 熊本や鹿児島はもっと遠い。とにかく山形からでは、関東だって、関西だって遠いのである。空爆被害でほとんどの鉄道は動かないから、ガソリンがあればトラックの方がいい。ガス欠になったら、そこから歩け、と司令官はみんなに言った。
「今から諸君らが帰って行こうとしている敗戦国日本はどこもかしこも瓦礫の山だ。まともな町の姿は稀にしか残っていない程の爆撃をうけて、何百万、又はそれ以上の人々が家も家族もなくしている。しかし、お前たちには仕事がある。そういう人々を支え、はげましてくれ。そして、日本を再建してくれることを、俺は衷心から祈っている。決して短気をおこすな。命を大切にして、何が何でも生きつづけよ。日本のこれからの運命がどうなるかはお前たちの肩にかかっているのだから。」
司令官は、平常の口調を変えぬまま、淡々とつづけた。
「今夜、どうしても出発してもらいたい理由があるから説明しておく。」
そういう前おきで 改めて司令官が皆に告げたのは、日本が今まで戦っていた相手国の軍隊によって日本全土を占領されるであろうと言う「事実」だった。
「いいか、よくきけ。敗戦を受けいれた時から日本の軍隊は一切の武器を占領軍に引き渡し、すべての基地を明け渡さなければならんのだ。恐らくこの基地にも近いうちにやって来るだろう。その時、諸君らがここに必ずいなければならん、と言う理由はない。任務をとかれた軍人は民間人である。体に気をつけて、けがをせぬように家に向かってくれ。」
司令官は若者たちを、帰ってゆく地域別にわけた。そして司令室の部下に命じて、各自に地図と、少しの現金と、袋一杯の携帯食糧の乾パンを渡してくれた。
夜の闇の中に用意された数台のトラックの荷台にしゃがみこむと同時にエンヂンがかかり、ヘッドライトがあたりを照らした。ふり返った皆の眼に、無言のまま別れの敬礼をしている、白い軍服姿の司令官の姿が焼きついた。そして、一瞬の間にその姿は闇の中に消えて行った。
兄の復員の旅は、八月十五日夜半の出発から丸々四十五日間かかった。困難な旅だった。山形を出た兄たちのトラックは、九州と、関西、中国、四国地区出身のグループを乗せていたのでかなりの人数だったらしい。
先ず、最初にトラックが出あったのは、福島市が爆撃でもえ盛っている火事だった。迂回してさけようとしても、火は手のつけようがない程もえており、うろうろと山の中に逃げこんでいるとガソリンがあやしくなった。結局、トラックをあきらめて歩き出したときは夜明けだった。
福島の次は埼玉の熊谷市がもえており、東京も見渡す限りの焼けあとだった。出来る限り迂回しても瓦礫の山はなくならなかった。
関東から中部地区に入ると、至る所で火事はつづいており、特に名古屋がひどかった。
兄たちは話し合った末、二人か三人ずつの小グループにわかれ、それぞれちがう路(ルート)をたどることにした。あまり人の気配のないしんとした夜半の焼けあとの所を突然数人の若者が群れて歩いていると目立ちすぎるんじゃないか、と誰かが言い出し、それもそうだと二、三人ずつにわかれたものの、誰も口を開かず、只、黙々と歩いた。
毎晩、午前二時頃には何とか野宿に適した焼け残りの人家や、寺の庭先をみつけて体をよせあい無理にでも眠った。関西に入った所で雨になったが、兄は、同じ九州出身のS君と二人で、とある道ばたの古い神社の軒下にすわりこんで雨が目の前の石畳を叩くのを眺めていた。二人とも空腹でたまらなかったが、当時の日本には、食物を売っている店など皆無で、食物どころか、衣料、金物、履きもの、その他の生活用品そのものが国の中に流通していなかった。
大阪も神戸も見事な程焼けていたが、神戸の町はずれで、一休みするつもりで借りた軒下の家の主人夫婦が、ふかしたいもをごちそうしてくれた。その夫婦によると広島におとされた特殊爆弾は非常に毒性が強くて、肌がボロボロになって死んでしまう、といううわさだから、近くに行っては危険だ。ぜひ迂回するように、と忠告された。兄たちは教えに従って迂回した。
兄の話は、こういう旅の途中のことになると、司令官と約束した「軍の機密」にそれ程さしさわりがないためか、すなおに色々なことを語ってくれた。なにしろ、当時の日本では徹底した報道規制、旅行などの移動規制、言論統制のきびしい監視下で暮らしていたから、隣町や、近くの県で何がおこっても、一切知らされていなかった。すべて人から人へ、ヒソヒソとささやかれる口コミでしか知るすべがなかったのである。だから、兄が語る、復員の旅の話がどんなに新鮮にきこえたことだろう。おおげさに言えば、「ああ、日本列島にはまだ日本人がちゃんと住んでいて、同じように苦労しているんだ。」と一寸ばかり感動した程だった。
兄はよほど訓練で体にムリをさせていたのか、帰宅して一週間もたたぬうちに急性肺炎をおこし、生死の境をさまよった。高熱でもえるような彼の頭をタオルの水で冷やしていると、あっと言う間に洗面器の水はぬるま湯となった。町に氷を売っている店もなく、製氷器のような金物は全部、軍に供出されていて、氷は手の届かぬぜいたく品となっていた。
母と私は「頭をひやす当番」を作って、井戸の深い所から冷水をくみあげては、ひんぱんに洗面器の水ととりかえた。
「神様、仏様、どうかお助け下さい。」
と、母は真剣に祈りつづけたが、私は怒った猪みたいにむくれ返って、口をへの字にしたままタオルを絞っていた。私は、真剣に神に向かって腹を立てていたから、祈るどころか、兄が死んだらどこかの神社に火をつけてやろうか、と考えていた。理由は単純だった。特攻にとられて、まさに死へ向かってとび立つ所を助かった兄が何故急性肺炎で、死ななきゃならないのか?!そんなバカなことは許せん!!と言うのが私の言い分だった。
神様も一寸ばかり驚いたのか、兄は徐々に肺炎を克服して元気になったから、私も正直な所、神社に火をつけなくてすんでホッとした。家族だけでささやかな快気祝いをして、珍しく将来に明るい灯がともったような気分で兄の「復員旅三度笠」みたいな話のつづきをきいていると、村の顔役のおぢさんが突然、兄をたずねて来た。