戦争が始まるとほとんど間をおかないで、日本中に「戦意昂揚」のための歌がはやり出した。満州事変の頃の歌謡曲だった「満州思えば」は一世を風靡した。特に日本軍が中国に進行しはじめると、無数の戦争賛美、愛国や忠義の言いまわしが入った歌がふえた。ラジオの演芸番組から流れて来るそれらの歌を人々は喜んできいていた。
昔の日本人は平均して温厚で勤勉、まじめなタイプの人が多く、人前で大口ひらいて大笑いするような感情むき出しのタイプの人は稀だった。
和風の家の座敷にすわっていると庭の樹々の枝のゆれや香りが静に漂って来て、戸外と室内の空気がいつのまにかいっしょになり、鳥のなき声もまざって、全体が一枚の静止画像のように美しくみえた。石造りの家の中にいて、しめた窓の外からでもひびいて来るロシア語の声高な話し声や笑い声、歌声をふつうのこととして受けいれながら育った私には、日本の住居や人々の静けさが大変に印象的だった。
その強い印象が突然変化したのが昭和十六年十二月八日だった。その日を境に、日本の社会ははっきりと、「音」が高くなり、昔にくらべるとさわがしくなった。先づ第一に、十二月八日の真珠湾攻撃の成功をむき出しに喜びあう日本人同士の輝くような笑顔がキラキラと目についた。村の家々の当主達たちは三々五々つれだって、村の守り神である鎮守様にお参りし、声高く「アメリカに勝つ」ことを話しながら酒を飲んだ。
私の母はいつものように無言で酒の肴を準備しながら、笑顔をみせなかった。あとできいてみると母はぼそっと言った。
「アメリカ相手にしたら今まで以上に兵隊さんが戦地に行かんならん。一郎のことが心配なのよ」
私の兄の一郎はその時、大学受験でフウフウ言っていたが、人々の噂では、兵隊不足で困っている政府は、若者が大学受験に失敗すると問答無用で入隊させてしまうらしいと言う話だった。真珠湾での勝利のかげにじわじわと浮かびあがって来た、庶民の持つ根深い不安感は決して理由のないものではなかった。
「アメリカとどこまで戦えるのか?」
と常識的な日本人だったら二度や三度、不安にかられたことがあったと思う。まだ十六才の子供の世界でのほほんと暮らしていた私でさえ、石油や資源を遠い南方の海を渡ってはこんで来なければ何も持っていない日本の現実を不安に思わざるを得なかった。
そして一般日本人の誰の眼にも、信じられない程巨大な「戦場」がいつのまにか出来てしまっていた。
北はアッツ、キスカの島々、南はラバウル、ガダルカナル、ソロモン、そして香港、フィリピン、インド、シンガポール、更に名もしれぬ大平洋の島々の一つ一つに兵を駐留させると、どんなにしろうとが必死で考えたって「食糧や弾薬はどうなってるのか?」と不安になってくるのは当然ではないか。
昭和十七年六月にミッドウエイ海戦で日本はアメリカに敗れたが、そういう情報ははっきりさせないまま奇妙な言いまわしで発表されるので、人々は不安のままぼんやりとラヂオニュースをきき、ニュースの言葉のウラを探りつづける。そうした不安感をなくそうとして政府は狂ったように「戦意昂揚」目的だけのために、軽快で調子のいい、力強く明るい歌や曲を募集して次から次に発表した。
「日の丸行進曲」、「大平洋行進曲」、「愛馬進軍歌」、「進軍の歌」等々は私の女学校時代の音楽の時間にみっちり教えられた。
そして昭和十八年、政府が二十五才以下の家庭にいる女性を勤労挺身隊として動員したのに参加してからは、月に二回はピアノがある「大日本音楽協会本部」に出向を命ぜられた。
仕事はひたすら、たたきこまれる歌曲をおぼえ、所属する工場に帰って他の隊員たちに教えることであった。コピー機もなければ、録音機も皆無だった大昔のことだから、仕事は困難をきわめた。渡される歌詞は所々インキで黒々にじんだ謄写版ずりで、楽譜はもっとぼやけていた。それでも大切に持ちかえり隊員たちに写させた。
幸いだったのは、我が挺身隊は工場の中でも昭和十七年と十八年に女学校を卒業したばかりの平均年令十七才という最年少グループ十五人位で、その中でも音楽好きでピアノがひける二、三人を中心にしてあっと言う間に写し終り、すぐに鼻歌まじりに歌いはじめた。
私の役目は歌全体を記憶して必ず、全隊員におしえなければならなかったから、ピアノ教育もうけたことのなかった私は不安で一杯だった。しかし、ピアノがひけたニ、三人の少女たちは音程がたしかで一応楽譜もよめた。私は大喜びで、彼女たちに教育をまかせ、仕上がりだけを監督した。隊長、隊員共に十七才から十八才までの十五人のにぎやかなわがグループは「歌がうまい」と評判だった。
こうして覚えた「いろはのいの字は、命のいの字」、「月々火水木金々」、「荒鷲の歌」、「空の勇士」、「赤い血潮の予科練の」、「花のつぼみの若桜」、「勝利の日まで」、「ほしがりません、勝つまでは」などと言う、軍歌も流行歌もごちゃまぜの陽気な歌を、すきっ腹を抱えながらピイチク、パアチク、カナリアの如く歌っていた。