日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

カナリアと笛吹きの童話 その2

五時の仕事終了から三十分間は昼勤者と夜勤者の交替引き継ぎの話し合い時間だったが、カナリア隊はまだ数人が残って歌いつづけていた。

最年少のグループなので十七才の多い班では夜勤がない。遠距離から通って来ている少女たちはすぐ帰って行ったが、徒歩で往復できる数人は、暫く歌をつづけた。五時四十分頃になってやっと帰路についたが、今日のカナリア隊の全員はそろって独特の雰囲気を持っていた。

五時に出勤して来た中年の主任の工員さんは、じろじろと皆をみまわして首をひねって、私に、
「何かあったのかい?」
ときいた。
「うん。アッツ島玉砕の歌を練習したら、みんな泣き出して大変だったの。でも、もうおさまったみたい。」

彼はおちついた性格の熟練した旋盤工だったが、我が挺身隊に技術をしこんでくれる優秀な先生でもあった。おおげさに言えば、機械工場は、彼ともう一人の女性の熟練工の赤木さんとで何とかなっていたが、中学グループや小学校六年グループが多いため、時々、
「俺たちに機械の仕事だけさせといてくれれば給料は半分でも文句はないんだがネエ」
と、私にぐちをこぼした。その彼が、
「今日の女の子たち、何だか妙だったね」
とフシギそうに言った。

たしかに彼女らは無口だったが、皆、何か強烈な衝撃に出会った後の「陶酔」に似た「充実感」そのもののような表情をしていた。そして何度も繰り返して、
「私たちもいっしょなのよね。アッツ島だって九州だってかわらないもの」
「そうだよ」
「皆、いっしょなのよ」
「皆、死ぬのよ」
とつぶやいていた。

少女たちは、特定の誰かに力強いスピーチを披露していたわけではなかった。只、共に歌った仲間に向かって、連帯をたしかめているかのようだった。彼女らが歌っている間に、目にみえない強い帯でひきむすばれてゆくように、みんなでほほえみながら玉砕への道を歩いてゆくのだろう。

私は「行かないで」と仁王立ちになりながら、怒りをどこにぶつけていいか、わからない。それでも怒りつづけて「玉砕」など誰がするもンか!と最後は自分自身に向かってどなる。

多分、人々は私をいさぎよくない、とさげすみ、女々しいと罵るだろう。しかし、私は一人になっても、悪魔になっても玉砕はしないと決心した。

その夜、私の自宅に向う国鉄は動かず、相変わらずの夜の定期空襲がはじまった。今夜も又、小規模編隊が三度程やって来たが、山の中にひそんでいる掘建て小屋みたいな工場はみつかりにくいらしかった。敵機の方も帰還用のガソリンが気になるらしく、長居はしないのだが、入れ替わり、立ち替わりやって来る。その爆音と、時々ひびく機銃掃射音と、ほんの時たま工場の屋根を貫いて機械にぶつかる鋭い金属音との交響曲みたいなひびきをききながら、私は改めてその日一日の出来事を整理した。

結局一睡もせずに考えたあげく、行き着いた結論は、子供の頃に読んだ、ある童謡の話だった。その話は日本の中ではなく、ロシアかヨーロッパでのことらしかったが、どこであったか記憶にない。

とにかく、ある所にとても笛の上手な少年がいた。名はしらない。どういうわけか、少年が笛を吹いて街の中を歩くと、いつのまにか彼の背後に子供たちがゾロゾロとついてまわった。

少年が何故街の中を笛を吹いて歩くのか、という理由はよくわからないが、子供たちは少年がかなでる音楽を大変愛したらしい。気に入ったからゾロゾロついて歩いたのだろう。

そして、話の最後は、何故か少年の笛のあとについて皆海の中に入って行って、いなくなってしまった、ということなのだが、この少年は何かの企みのために街の全部の子供たちを海の中に入れてしまったのか、又は、別の理由があったのか、話の結末も私の記憶にははっきり残っていない。

只、そこで私がはっきりと認識しなおしたのは、政府は勿論、ありとあらゆる役所や新聞社や雑誌社が新しい歌曲を募集し、入賞した歌曲には名誉と賞金を渡し、ありとあらゆる機関や組織を通じて、流行の波にのせ、「笛吹き少年」を作っていたのだという現実だった。

カナリア隊がわかりやすい例ではないか。事実を直視すれば、我々はいつも何も考えずに、又何かを考える必要はちっともなく、只、おぼえて来るように命ぜられた新しい歌の詩をおぼえこみ、曲をおぼえこみ、言われる通りにあちこちで歌をうたいつづけた。

みんな明るくて楽しい歌だった。「ブンブン 荒わし ブンと飛ぶぞ」と言うような調子のいい歌もあった。

しかし、アッツ島玉砕の歌はいきなり私たちの現実を曲つきであからさまにし、将来の私たちの運命をも目の前につきつけた感じだった。そして一人でも「玉砕反対」を叫ぼうとする私のすぐ横で、同じ挺身隊のカナリアたちは、既に守備隊の兵士たちの死の世界に同化して行くことに何の迷いもためらいも見せず、向う側に行ってしまった。多分彼女たちは「玉砕反対」を叫ぶ私を見るとショックと嫌悪感で体をふるわせるだろう。

童話の中の笛吹き少年の役を我々は演じて来たようだが、厳密に言えば、官製の歌や曲は「笛」で、我々はあやつり人形の如く笛をあやつる「少年」だった。そして、ゾロゾロついてくる子供たちは曲といっしょに海に消えてしまう。この子供たちの運命が、我々を待っているのだろうか?

私の心の中に、何か大きな石のかたまりがどっかとすわったように、体は冷たくこまかくふるえていた。誰か、友人か、親か、心を打ち明ける相手を思いつかないまま、私は誰にも何も言わず一人で、じっと考えつづけた。

既に昭和十九年冬は、寒さをふせぐ炭、油、電力が十分とは言えず、食料も不足していた。

それ以降、どんなに政府がラヂオを通じて明るい歌を流しても人々の心は沈みがちで、めったなことでは誰も本音を口にしなかった。日本国中の家族や親族たちは大抵一人か二人、多い所は四人の戦死傷者を抱えていたから、どれ程きびしい箝口令をしいても、家の奥座敷でヒソヒソと語られ、伝わって来る事実はそのまま伝わっていった。出征兵士たちの家族は、きれいごとばかりを口にして生きてゆける程ゆとりはなかった。