日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

戦争と兄 その2

私が真剣に「戦争」と「死」について考えはじめたきっかけは、この兄の海軍入隊にまつわる色々な出来ごとだった。それまでは「戦争」や「死」について何か考えたとしても十七、八の女の子が恐怖を押しかくしながら、あれを思い、これを悩むと言う幼稚なものでしかなかった。

今、八十才を越した私の記憶は、まるで春のおぼろ月の如くかすんでいて、到底明晰とは言いがたいが、ある日、ある時、ある瞬間について、ピシャッと焦点が凍りついた如く何でもはっきりみえることがあった。

たとえば、佐世保の海兵団に出発する二日前に、兄とその友人たちが送別会を開いて、朝の四時までしこたま飲んで歌った時のことだった。もっと正確に言えば、兄とその友人たちが歌っていた歌の歌詞が鋭くビシビシと全身につきささり、何ともしれない悲しみと怒りが渦をまいた。
いわゆる歌謡曲の種類のやわらかなメロディの明るい歌をうたっている間はよかった。
しかし、「露営の歌」とか「討匪行」、「燃ゆる大空」などと言う軍歌が若者たちの合唱でひびいてくると、体がふるえてきた。

夕方の六時頃からはじまった送別会は、最初こそ父や親類たちもいっしょに飲んでいたが、次第に、若者たちの間から、
「大人が何故ここに?」
と言う空気がたちこめてきた。そして、
「大人が我々のことに口を出して何になる?」
と言うきびしさにじわじわと変わって行った。誰かが声高にそう言ったのではないが、彼らの合唱の若々しい声が、「老いた大人たちの思い」をはねのけ、一定の距離をおいたまま、決して近づけることがないような感じがした。

気がつくと、父も母も他の大人たちも姿を消し、私一人が料理を作り、酒をあたため、お酌をしてまわり、黙々と立ち働いていた。母が台所で仕上げてくれていた筈の皿をとりに行った時、料理を盛った皿を前に、母は板の間にすわって声も出さずに泣いていた。私はだまって皿をとりあげ、歌声がひびきわたる座敷にもどって行った。皆が「飲めや歌えや」とさわぎ踊っていた客座敷は十二畳と八畳をぶちぬいた広さだったが、夜八時になる前に、父が早ばやと座敷をとりまく広縁に、頑丈な厚い木の雨戸を閉めた。この雨戸はどちらかと言えば台風などの災害のためのもので、この雨戸を閉めると家屋全体が強固な要塞となる。外からは家の中の物音がきこえなくなり、外部の嵐も家の中にいればきこえない。

父は酒に酔った兄たちの話し声が外部に洩れて人の噂の種になることを用心したのであろう、と私は思いながら酒の燗をしていた。そして、兄たちの話が次第に白熱して行き、やがて自分たちの行末について掛け値のない見通しを語りはじめるのをききながら、自分自身の行末を痛切に考えはじめた。
その夜のことは、私が自分自身の死を生まれてはじめて具体的に考えたきっかけになったことで、その後も現在も決して忘れたことはなかった。

兄たちは酔っぱらったふりをしていたのか、室の中に大人がいなくなるとさっと表情が変り、お互いに集めたなけなしの戦争情報をあれこれと語りあっていたが、冗談めかしていてもその内容は少しも楽観的ではなかった。

既に特攻の名の許に、先発して南海に散った学徒兵たちがかなりの数いた。彼らも自分たちが佐世保での適性検査の結果、各種各様の陸・海・空の乗物のどれかにわりあてられ自爆することを十二分に認識していた。
「まァ、行先は同じようなもんだろうが、入っていく棺桶のちがいは大きいね」
「俺たちは消耗品だからな、棺桶のちがいにぜいたく言っちゃイカン」

話にあきると歌が出た。
昔からの古い学校でよく歌われたと言う「○○出てから十余年」と言う、寮歌のような、学生歌のような歌がしばしば口に出て来た。彼らが在学していた旧山口高商では一番人気だったらしい。哀感こもった節まわしの歌であった。

「高商出てから十余年
   今じゃ銀座のルンペンで
      集めたゴミは二万トン」

などと言う歌詞がエンエン十何番までつづく。
夜もふけた午前二時頃、じっとすわって歌をきいていた私の耳に全くちがう歌詞がひょいと入って来た。

「学業なかばで海軍さん
   今じゃ立派な消耗品
      明日の命を誰が知る」

私はふりむいて座敷をみつめた。若者たちは合唱しながら眼をとじて体を前後にゆすっていた。
私の記憶では、その夜、彼らと話をかわしたり直接何かをたずねたり、と言うようなふつうの雑談が一切なかった。誰も私に話しかけず、私も又、黙って朝までそこにいた。酔いつぶれて横倒しになった学生たちに枕をあてがい、毛布をかけ、水の入ったコップを手渡した。

何を考えていたか?
その夜、私は目の前の兄と友人二人の生と死の事について考えていた。六人の学生のうちの三人が召集を受けた同級生で、あとの三人は学校の寮で生活を共にしていた「後輩」であった。しかし「後輩」と言っても、来年には「召集」が待っていることはあきらかであった。

彼ら自身の話や歌の中にしばしば出て来るように、戦争のための「消耗品」であることは事実だと言う気がしたが、心のどこかで、じゃ我々のような女は一体何のためにここにいるのか?と言うような答えられない疑問がメタンガスみたいにポツポツと湧いて来る。当時の日本社会は、明治維新で少しばかり近代化しただけで、まだしっかりした人権意識も育っていなかった。私の父の如く「女は男より愚かだから保護と指導が必要不可欠だ」と本気で信じている男や女が圧倒的に多かったから、いざ戦争、となると、男がすべてに主導権を握るのが当然であった。

そうだ。戦争は「男」が勝手にはじめたのだ。しかし男が何をしようと、女は掃除・洗濯・料理・出産・育児に関わるのみ。
それこそが女の仕事だ、と言われれば、フーンそんなものか、と思うのだが、その育てあげた息子を戦場に送り、不満も言わずあとにつづく「消耗品」をせっせと生産、養育しているのはおかしいではないか。フン、バカバカしい。

「私は将来の消耗品製造機械か?」
心の中で苦笑いした私は、大分おとなしくなった歌声であっても
「・・・・・・・今じゃ立派な消耗品
           明日の命を誰が知る」

などと言う歌詞を母には絶対きかせたくなかったので、母がかたづけに来る前に大急ぎで座敷をきれいに掃除した。兄たちは酔いがさめたらしく、歌よりも「話」に熱中しはじめたが、話の内容はよくわからなかった。既に午前三時をすぎ、さすがの若者たちも、疲れとねむけで、次第に静かになっていった。

私が立ち上がって座敷を出ようとした時、広縁のすみの椅子にすわった父の後姿が目に入った。父は雨戸を閉めきった硝子戸の闇をみつめたまま微動だにしなかった。座敷のあかりは空襲を意識して黒布がかけられていたから、広縁のすみは、ほとんど真っ暗で父の後頭部の白髪がわずかに光っていた。
私はちらりと白髪をみて、そのまま座敷を出て台所に行った。俄かに母のことが心配になって台所や風呂場をうろうろ探しまわったが、母は奥の仏間で、数珠を手にしたまま、先祖の位牌の前で糸が切れた人形のようにうつ伏していた。

その夜の私の記憶は、その母をふとんの中にねかしつけた所でプツンと切れている。あとは私自身が海軍系の飛行機工場に女子勤労挺身隊として徴集され、きびしい訓練であけくれた記憶しかない。
そこから先は、「生死」のことを考えることさえ贅沢なぐらい逼迫した生活の毎日が続いた。定期便みたいに来襲するB29から逃げながら、本音は死のうが生きようがどうでもいいような気分に支配されることが多かった。

兄は佐世保に終結したあと、まるで神隠しにあったように消息不明になったが、両親の心痛は、
「ひょっとして特攻にとられて、訓練で事故でもおこしたのではないか」
と言う一点に絞られていた。親としては、最後の最後まで息子が「特攻」にとられないでふつうの海兵団に入団し、軍艦に乗務しているのではないか、と思いたい様子がありありと見えていた。しかし、別れの夜に兄たちの話を聞いていた私には到底そんなことは考えられなかった。特に兄は、
「俺くらい特攻向きの体を持っているヤツはいないよ。心臓は丈夫で、肺は珍しいくらい強くて、骨は固い。惜しむらくはアタマが天才とは言えんのが玉に傷だナ。」
としゃあしゃあと言って笑っていた。

いよいよ戦局がきびしくなり、遂に沖縄戦がはじまった時、九州の人間たちはイヤでも覚悟をしなければならなかった。
「次は九州にやって来るだろう」
ということを誰一人疑わなかった。沖縄県知事の島田と言う官僚が戦場で亡くなった時も、軍、官、民、ともに生き残ることは出来ないだろうと人々は理解した。
それ程、軍の「玉砕教育」は徹底していて、東条英機の戦陣訓は若い者が最も読まされた、日本精神をみがきあげるための「注意書」みたいなものだった。当時のことを思い出すと、十九か二十だった私は、朝から晩まで「死ぬこと」を押しつけられて毎日をすごしていたような気がする。

兄は兄で、どこかの海につっこんで既に死んでいるだろうと、私も両親もあきらめていたし、自分たちの生死さえ、どうなるかわからなかった。兄はとにかく徹底して音信不通だった。

そして原子爆弾で、広島と長崎が崩壊した。何故か、重大ニュースは真っ先に口コミで伝わって来るのが常だった。村の長老二人が奥座敷で長いこと話しこんだ後、緊張した顔で帰って行ったが、父は夕食の時、たった一言、
「特殊爆弾で日本は負けたな」
とひとごとのように呟いた。
母も私も無言だった。三人とも無言のうちに考えたのは兄の安否だったが、結局口に出さないまま夜は更けて行った。

終戦の年はやたらと台風のおとずれが多かったので、その対応に追いまわされていた九月末のある日の夕方、玄関に誰か入って来た。
「どなた様でしょうか」
と顔を出すと、文字通りひげ面でやせ衰えたユーレイみたいな兄が立っていた。咄嗟に私の口からとび出したのは
「兄さん、生きてるの?」
という叫びだった。
兄は私をにらんだが、次の瞬間、「ふふッ」と苦笑した。そして、汚れた軍靴を脱いであがって来た。特攻生き残りの帰還であった。