日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

カナリアと笛吹きの童話 その1

昭和十九年二月の、あの寒く冷たい山中の小さな工場の片すみで、私はカナリア隊の少女たちの美しい声に心の半分をとらわれ、あとの半分で、アッツ島に取り残された形の兵士たちの絶望を思いやって、体が凍りつくような思いで立っていた。

私の嫌いな東条英機大将が命令した「戦陣訓」では、
「ーーー決して降服するな。降服するなら自決せよ」
と言うのが主旨であり、日本の社会通念となっていた。たまに不可抗力で「捕虜」となったケースでも、人々は公私共に絶対に表沙汰にしなかったらしい。もしもそんなことになったら、その人間だけではなく、家族、親族の末端に至るまで村八分となり、何世代にもわたって社会から追いとばされることが人々の常識となっていた。

私は基本的に「玉砕」と言う名の「自殺」に対して賛成できなかった。元来「自殺」することそれ自体に反対だった。何故なら、私は生後三週間で肺炎となり、一度仮死状態となってやっと助かった赤ん坊だった。奇蹟的に助かったかわりに、稀にみる程の超虚弱児として一年の半分は常に病床でねこんでいた。私のまわりにいた親族も他人も医療関係者も十才までは生きられないだろうと考えていたし、口に出してそう言う人々も沢山いた。

物心つく頃から「十才頃には死んでいるんじゃないの?」と言う心ない冗談に耳を傾けながら、私は心の中で、
「畜生、誰が死んでやるか! みんながもうタクサンだ、死ね!と言ったって私は生きぬいてやるもンネ!」
と言うド根性の根を育てつづけ、そのためか、ありがたいことに体もなしくずしに丈夫になって行ったと言ういきさつがあった。

私は、幸か不幸か、いまや玉砕列島となりつつあるような日本国の中に恐らく只一人、
「死ぬもンか! 玉砕クソくらえ!」
と内心考えていた人間だったかもしれない。

いくらアタマが悪い私でも、自分が考えていることが当時の日本でいかに狂ったものであるか察することが出来たので、おとなしく口をとじて、カナリア隊の歌声に神経を集中した。そしてはじめて彼女たちの様子に気がついた。

最初感じたのは、皆の顔つきの何とも言えない「美しさ」だった。歌声も又透明で、ピタリと息のあった合唱だったが、何かに憑かれたような強力な力がこもっていた。どうみても彼女たちの歌声も表情もふつうではなかった。

私は穴のあく程、彼女たちの一人一人をじっとみつめた。そして、ふっと思った。

「この人たち、生きたまま死んでる・・・・・」

生きたまま、死んでいる、と言う、全く矛盾した言葉しか浮かばなかったが、しばらくみつめているうちに、砂地に水がじわじわとしみこむように、彼女たちの心がアッツ島の兵士たちといっしょになったのではないか、とわかって来た。

一心に歌をうたっていると、人と人との間の、隔たった心の垣根をとりはらうことができると言う。しかし、私の目の前にいる少女たちは、自分たちとアッツ島の兵士たちとの間にある「生と死」の垣根をのりこえてしまったのではないかと思った。

カナリアたちは、今生きているけれど、もしも今夜半、大空襲がはじまって、そこら中に爆弾の雨がふりはじめると、いつものように山の中を逃げまわらずに、皆でよりそって立ち、手を握りあって、しづかに「さようなら」と言って死んでゆくかもしれない。

「玉砕覚悟」と言う程のはげしさではないが、少女たちの立ち姿には、従容とした静寂の美しさがあった。彼女たちなりの納得にたどりついたのだろう。しかし、私はカッとした。

「死ぬんじゃないよ!」

と叫ぼうとしてはげしい絶望に体がふるえた。私と彼女らの間にあるぬきさしならない距離に、間一髪で気がついたのである。

私は、子供時代から生き続けることそのものが私の人生だと感じていた。だからこそ、近いうちに死ぬだろう、とまわりでかげ口をどんなに叩かれても、生き続けることに必死に努力した。国や大人のエライさんたちが何を言おうと私は生き続ける。もし、万一、私がアッツ島にいたとしても、泥水をのみ、土に穴を掘ってでも、みみずとなってでも生きてやる。

そういう私は、同じ挺身隊員同士でも、他の少女たちと全く違う位置に立っていて、お互いの距離は絶対にうまらないのであった。私は今更ながら自分の孤独な世界に愕然となったが、考え方を変えようとは決して思わなかった。どう考えても私は変わりようがなかった。