日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

聖戦となぐりこみ

私が三才から育ったシベリアの港町、ウラヂオストック市を引きあげて日本に帰国したのは十二才になったばかりの「昭和十二年一月」だった。

三才児の頃の日本の記憶は全くのゼロであったから、日本の何をみても驚くことばかりで、先づ、どこをみても「雪」がないのに仰天した。十一月から五月 、六月まで雪がとけないまま、降りつづくシベリアから来た私は目をまん丸くして言葉もなかった。敦賀港に上陸してそのまま北海道に行けば「雪」を見ることは出来たのだが、私の行先は親の郷里の北九州の小さな村だった。

あまり人通りのない、静かな村に到着した私の姿は昭和十二年の頃としては、 かなりフシギなものだったに違いない。頭にはベレー帽、ウールのオーバーコート、ウールのワンピースに靴下、そしてピカピカの革靴といういでたちだったが、東京や横浜や神戸のド真中ならともかく村の中では奇妙にみえた。農家の庭先に出て来た子供たちの多くは、和服を着て、わら草履をはいていた。

村の一隅に親戚が貸してくれた家に住むことになり、ひと足先に帰国していた兄と合流して小学校に転校手続きも終え、私の帰国の段取りは万全の筈だったが、驚愕の種は次から次に数限りなくつづいた。生れてはじめてはく下駄や草 履が、舗装されていない道でどれだけ足の指を痛めつけるかを思い知ったし、梅雨の季節の雨量の多さのたまげた。シベリアには梅雨がなかったのである。

言葉に関しては、私の日本語があまりに奇妙奇天烈だったため、子供たちは私とまともに話をすることをしなくなった。何を言っているのかわからないので 無理もなかった。結果として私は一日の大半をだんまりのまますごし、時々、兄に命じられて、兄の学用品の入ったズック地布の鞄を持って、兄が村の悪がき連中と一対一のなぐりあいのケンカをやるのを眺めていた。

私の父は子供に対して遠慮なく手をあげる人間だったから幼い頃から「暴力沙汰」には馴れていたが、それでも九州の一地方の空気としてこのあたりには「口で言うより手の方が早い・・・・」と言う習慣があるのだな、と自然に気づいた。兄は転校して来た一人の新入りガキとして手荒い歓迎をうけていた様子だったが、周囲の大人たちは大したモンダイにもしていなかった。

小学校、中学校、そして旧制高校とか、旧師範学校とかに進んでも、「ケンカ 」は一つの行事として認められていたように思う。
 
岩下俊作という作家が書いた「無法松の一生」という小説の中に、小倉師範学校ともう一つの専門学校の学生同士によるなぐりあい決闘の場面が出てくるが 、その中で主人公の無法松が、恐怖で逃げようとする一人の若者に対して「逃 げたら恥ゾ!」とどなりつけるところがある。確かに九州の福岡、佐賀、熊本、鹿児島地方の若者たちはこうしたイキのいい大人たちからしごかれることが多かったが、それと共にケンカ道とも言うべきルールも叩きこまれていたようだ。

ルールの第一は、何事があってもケンカは素手でやり、決して武器をもたない。
ルールの第二は、ケンカは原則として一対一でやり、一人を大勢でやっつけない。
ルールの第三は、出来るだけ、ケンカの大義名分を明らかにする。自分勝手なイチャモンをつけてゆすり、たかりをやるのは無法者のやくざであって、ケンカの正道ではない。

私の記憶にあるのは、福岡市内の電車が止まって動けなくなる程、ド派手なグループケンカを年に一度はやっていた、旧制福岡高校と旧制福岡師範のケンカ 物語だった。福岡市民も馴れたもので、その日は外出を控え、ウソかホントか、時々逃げおくれたケガ人をつれて来て世話をするのだそうだ。

このケンカ習慣の中に「なぐりこみ」と言う実行動があって、どちらかがどちらかの集合場所になぐりこんで、さんざんなぐってパッとひきあげる。人数も お互いに似たような十数人を組織して公平を期すわけだが、たまにとんでもなく腕力、格闘技にすぐれた若者がいてこてんぱんにやっつけられることもあったようだった。こういうのは学校グループに限ったことではなく、各地域の青年会とか部落の若者たちとかがアタマに来て集団を作ることも多かったから、 入学式、卒業式、同窓会、祭り行事、結婚式、等々の人が集まる所では何がおこるか常に予断が出来なかった。

地域のリーダーたちはこうした若者たちを上手になだめすかし、うまくまとめ、時には小規模のガスぬき用暴力沙汰をもみ消す位の度胸がなくてはやっては ゆけない。私が帰国した我が母国風土はまことに血の気の多い、マッチョ文 化華やかな地域だった。父は相変わらずカンシャクがおきると家族をなぐっていたから、私は腹の中で 勝手に、「女、子供をなぐって喜ぶ卑怯者」として父を標準型男性から外していた。

ずい分ながながと「ケンカ」の話をして来たが、私の帰国直後に起った蘆溝橋事件とその後の中国への日本軍進攻の状況が、私が理解する「ケンカ」と「な ぐりこみ」そのもののような形でどんどん拡大して行ったような気がしてならなかったからだ。

途中からケンカではなく「天からのこらしめ」的な要素が増えて来た。一方的に日本が正しく、常にそういう大義名分が大人たちによって作られ、語られ、記憶させられた。予想以上に複雑な日本語に苦労しながらなぐりこみの大義名 分を探しまわったが、私にはメディアの活字として踊る「八紘一宇」の意味もわからず、「暴支膺懲」は「暴れて言うことをきかない支那をこらしめる」という意味だと教えられても、何故支那に出かけるの?何故理由を言わないでなぐりこむの?何をしたからこらしめるの?と疑問が次から次に湧きあがって消えなかった。

他の子供たちにとっては時の「オカミ」というエライ位置にいる大人が示すことは何であれ「従う」ことに決っていて、それは何故か?と考える習慣も発想 もなかったし、さしあたって親を含めた大人の言うことを受けいれておけば無 難に暮せるものと信じきっているような様子だった。

幸か不幸か、私は帰国直後で、「軍国言葉」と言う新しい日本語についてはほとんど理解不能だったから、他の子供たちが深く考えず、単純に聞き流している言葉について、ひとりで大まじめにその意味をしらべはじめたのである。

たとえば毎日、ラヂオから流れて来る、ラヂオ歌謡としてひろく国民にしられている歌であるのに、意味がよくわからなかった歌のひとつに「大日本の歌」というのがあった。

  雲湧けり 雲湧けり みどり島山
  潮みつる 潮みつる 東の海に
  この国ぞ 高光る すめらみこと
  神ながら 治しめす すめらみくに
  ああ 吾等今ぞたた讃えん 声もとどろに
  たぐい類なき 古き国から 若き力を

  風迅し 風迅し 海をめぐりて
  浪さやげ 浪さやげ 敢えてゆるさじ
  この国ぞ醜はらう すめらいくさ
  義によりて 剣とる すめらみくに
  ああ 吾等今ぞいかん かえりみはせじ
  日の御旗 ひらめく所 玉と砕けん

  気は澄めり 気は澄めり 美し川
  眉あがる 眉あがる 雲のはたてに
  この国ぞ 一億の すめらみたみ
  こぞりたち ふるい立つ すめらみくに
  ああ 吾等今ぞ進まん 赤き心に
  新しき御国の歴史 開けつつあり 

私の日本語についての知識と経験は浅く、日本文学全集、世界文学全集、児童 文学全集その他もろもろの文芸小説をめったやたらと読破することによって身につけたものだから、かなりかたよっていたと思うが、それでもこの歌詞が美しい文章によって、流麗な詩になっている、と感じたのであった。

惜しいのは、傍線をひいた部分が全くのチンプンカンプンなので、結局全体が 何を言いたいのかわからないのだ。私が何の説明もなくウン、そうそうと理解できるのは一番最初の二行だけであった。

「雲湧けり みどり島山 潮みつる 東の海に」という二行は、私にとって白い雪のシベリアから帰国して初めて目にした日本の風景であった。凍結したウ ラヂオストック港を出て、次第に氷塊が消えてゆく日本海を渡り、海の彼方に 浮んでいた敦賀の町を見た時はまさにみどり島山、そのものだった。

何と言う美しい所だろうと感激したことが心に残ったが、この「大日本の歌」の中の日本と言う国がどう言う国柄で何をしようとしているのか、国民全員に 何かを期待しているようだが、何なのか、中心となるメッセーヂがぼうっとしたまま私にはつかめなかったのだ。

他の子供たちや兄にきいてみると、
 「日本は立派ないい国って言っているからそれでいいんだヨ」
とあっさり言われてそれっきりだった。

中国へどんどん進攻してゆく日本軍の活躍を新聞紙上で読むと、なぐりこんで ゆく日本軍の姿と、どうもはっきりしないなぐりこみの大義名分がアタマの片 すみから消えず、いつからか姿をあらわした「聖戦」と言う言葉のうさんくささも手伝って、私は納得しないままだんだん多くなる「出征兵士」たちを送る 学校生徒の列の中で日の丸の小旗をふっていた 。

私が納得できなかった理由の一つは、幼い時から中国人の子供と遊び、その親ともなじんでいて、私にとって彼らはさげすみ、こらしめるべき「支那人」で はなかったからではないかと思う。