日本式流暢英語が通じないのは?【中津燎子のエッセイ】

昔戦争があった時

はがみして叫ぶ『明日生きているか?』と。

1.はがみして叫ぶ『明日生きているか?』と。

私は今(2006年5月)、八十一才である。去年の末に本を一冊出版したが、一年の完成の予定が5年もかかって内容的にもいばれない出来上がりである。八十年の生涯の最後の捨てぜりふを並べただけなのが、四百頁をこす分厚い本となって出版社から届けられた時、心底、愕然となり次に呆然となった。

「今時、どこのアホウが厚さ3センチもある本を書くかいナ?」

と本人がそう思った位だから、本屋の店頭でこの一冊をみた人はもっと呆れたに違いない。恐縮千万ではあるが出版されちゃったんだから仕方がない。心広き、ヒマな人が手にとって下さればありがたき幸せである。

たまたま、私より三十才も若い友人が、たまたま広い心で四百頁を読破してくれた。そして感想をふたことのべた。その一は

「何ちゅう ややこしい育ちですかね?」

たしかに「おぎゃア!」という泣き声までは純粋に日本語だったが、三才でウラヂオストックに行き、十一才の終わりまでロシア語と日本語の混成シチューで育った。更に戦後のドサクサでみつけた仕事が英語の電話交換手で、その時から英語をメシのタネにして七十五才まで仕事をしていたから、英語とは一番長い「くされ縁」ではないか、と笑う人もいる。

心ひろき、若い友人の第二の感想は

「いつも感じるんだけど中津さんって、戦争の話になるといつも途中でやめてしまう気がする。今度の本もそうですねえ。何故ですか? 私達、戦争のことをもっとしりたいんですけどネ」

言われてみればその通りである。私はいつも戦争の話になると「ヒトリでシラケる」癖があってなかなかなおらない。その結果さりげなくちがう話に持っていくか、忘れたふりをするか、立ち上ってどこかへ消えるか、のどれかを実行してしまう。

別に何の哲学も理屈もない。単純に戦争の話をしたくないのだ。したって相手にわからないであろうことがはっきりしているからだ。

八十年生きたおかげで人間という動物はよくも悪くも実体験からしか学習出来ない動物であって、その中で「戦争の生ま体験」程、未経験者たちにとってわかりにくいものはないということがわかるようになった。それで当然である。たとえば、かの有名な詩人で劇作家の寺山修司氏の短歌がある。

「マッチする つかの間 海に霧深し
             身、捨つる程の祖国はありや」

胸をぐっと押されたような切実ないい短歌だが、昭和二十年四月の古いボロボロのメモ帳に走り書きした私の下手な短歌にくらべれば、とんでもない程の「ゆとり」がある。

「吾、はたち 空曝さなかの一瞬に
             はがみして叫ぶ 明日生きているか?と」

そもそも「空曝」の現実とは耳がつぶれる程やかましい破壊音と爆発音とがまわりをとりかこむことであって、本人が直撃弾でぶっとばされない限り、その「破裂音」から逃げられない。夜は真暗で自分のいる場所すらさだかではない。こうなると、「身、捨つる程の祖国ありや?」なんて考えるよりは、近づいてくる爆発音の方向と距離をはかり、自分の手足がまだ動くか否かを確かめることの方に必死だった。

そしていよいよ「終りか」と感じた時私の全身に、昭和十二年に帰国してからの八年の記憶が一気によみがえり、私は強烈な憤怒で破裂しそうになった。そして周囲の闇と爆発の壁に向ってどなりまくった。一秒か二秒の間に次の爆撃音が私のどなり声の上に重なった。一体何をわめいていたか?

「自分は明日生きているか? どうなんだ! 答えろ、このバカ、国のアンポンタン!! 国のバカ!」

頭上の敵はアメリカのB29なのに、何故、日本の国にモンクを言うのか?と人は言うだろうが、それは昭和十二年から二十年までの八年間の「戦争生活」に腹の底からウンザリしまくってのことだった。ナンボ国の政府は偉いかわからんけど、もう食料は底をつき農民以外は道ばたの草をゆでて塩をかけて食べるような状態にしてしまったのは、どこかでやり方がまちがってるんじゃないか? オカミは何をしているのか? 飢餓と爆撃と、将来に平和の夢をみるより一億の国民仲よく玉砕すべし、という説教と、昭和十六年に東条英機大将が公表した戦陣訓の一節

「―――生きて虜因のはずかしめを受けるべからず」

という命令を毎日毎日きかされていると、「国は国民をそうまでして殺したいか? このバカ! 一度でいいから生きて幸せになれ! と言えないのか!」

と沸騰した鍋のふたがブットブようにどなっていた。

私以外にも爆撃最中にわめいていた者がいるにはいたが、ほとんど腰がぬけて歩けなくなったためパニック状態となり、「お母さん!!お母さん!!」と絶叫していた。私みたいに国をバカ呼ばわりしていた者がいたかどうかは知らなかったが、どっちにしたって明日生きている保証もなく、日本の勝利の実現もあやしかった。この国の将来という立派なものについて当時の国、政府や学校、工場などの大きな組織のエライ大人たちが毎日毎朝おごそかな顔つきで訓辞をたれていたが、その表面ばかりを飾った戦意昂揚的美辞麗句をはぎとると、何ともお粗末な未来像しか残っていなかった。

何があっても国の言うことを聞いて命令通りに戦い、何ひとつ文句を言わず、説明も要求せず、作戦のまちがいや判断ミスなどの責任を問わず、恨みを言わず、黙って死んでゆくのが私たち日本人の期待されたあり方だった。

そして女性にはもう一つ重大な任務としてなるたけ沢山の男子を生むことが望まれていた。戦死者がふえすぎて兵隊が足りなくなったのだ。つまり「戦時における少子化対策」みたいに、「女は子供、それも男の子を生んでこそ一人前」という意識が社会常識としてあふれていた。

日中戦争が十二才、真珠湾攻撃が十六才の時だった私は 十二、十三、十四、十五、と日中戦争と共に成長し、十六、十七、十八、は花の青春まっさかりでB29の爆撃下で逃げまわっていた。しかもその頃、三度も移転をくり返した工場は半壊で、ボルトやナットを作る材料もなかった。

通勤の列車も空襲で停車したきり動かなかったから帰宅の予定もたたず、用意して来た弁当はなくなり、近所の農家から砂まじりのクズ米を貰って来て飢えをしのいだ。工場には老人クラスの男性と、あとは女と小学五、六年の男の子や中学生を含む学徒挺身隊という実質的には子供しかいなかった。そういう状況の時に大まじめな顔でどこかのエライさんが来て

「お国のためにぜひ健康で勇敢な男の子を生んでほしい」

と訓辞をたれると私のアタマの中には豚の母親が十何匹の子豚に乳をのませている姿がうかぶのだ。そして訓辞をたれたおっさんがやがてピンクの子豚をどこかに連れ去ってしまう。

おっさんたちは母豚をほめたたえ、「愛国の母」なんていう賞をあたえるわけだ。

戦時では現実に沢山の子供を立派に育てあげた母親が受賞した話も沢山あって、少子化対策として一つのアイデアだと思うが、この「お国のために生んでくれ」というせりふが一つ入ると、私のイメーヂは子豚をどこかにさし出す母豚の姿になってしまうのである。

当時、十七、十八、十九の乙女だった私も年令なりに結婚に夢をもっていたが、その結婚相手の男性がほとんど戦地に出て行ってしまい、周囲は老人と少年だけなのをみると、母豚の姿しかアタマに浮ばなかった。

「ナルホド! 女は子うみ機械なんだねえ!」と私は改めて納得したが、その事実を自らの人生で実践してみたいとは全く思わなかった。小さな隊であっても女子挺身隊をひきいていると、この破壊と曝発と殺傷の現場でどれだけの女性が心に傷をうけ、どれだけのムリをして生きぬく努力をしているのかよくわかっていたから、「国のため」の一言で男性と一夜の妻としてすごし、次の日、戦地に送り出し、暫くしたら遺骨をうけとる、という生き方よりは一トン爆弾で消しとぶ方がスカッとしていた。

私は現在の日本人に聞いてみたいのだが、「愛国心」というのは国が対象なのか、或いはたまたまその時権力を握った「政府」が対象なのか? どっちだろう?

私自身は戦時中に愛国、ではない、「愛郷心」を作りあげ今日に至っている。国よりも風土を愛しているわけだが、私にとって国とは正確に何を意味しているのかわかっていないらしいので「風土」や「郷土」を愛することした。そして政府に対してはいつも警戒している。

十二才から二十才までの戦争体験で「政府は、我等国民をたぶらかした。」

という実感がガンとして実在し、戦後も度々「ああ、叉か」と思うことが多かったからであった。