「にっこり笑って、ばっさり切る」

投稿日:2011年9月30日

今回の本題に入る前に、まず今年の未来塾訓練についてですが、先日9月17日に初級コースが無事終了しました。東日本大震災のため例年より一ヶ月程遅れて始まりましたが、8名の受講者が全13回のレッスンを殆ど欠席無く参加され、おしなべて高い成果を最終レッスンの発表で披露されました。引き続き6名の方が中級へ進まれます。
 
さて、今回のブログのタイトルですが、これは、ディベートのありうべき理想的なスタイルとして、亡くなった私たちの師である中津燎子氏が述べていたことばです。ディベートの試合では、あらかじめ決められた論題に対して、肯定側と否定側に分かれて論を戦わせます。試合を経験された方であればどなたでもお分かりのように、やはり試合となると大半の参加者は勝ち負けを意識し、熱くなります。その時の基本的態度として、この「にっこり笑って、ばっさり切る」スタイルを目指すべきだというのです。
 
通常ですと、試合が進むにつれて両者間のやり取りは、眦を決し声を張り上げ、早口になってきます。その時に、どちらかの論者が「にこやかに」語りかけ、しかし内容は相手側の弱点をついて「ばっさり切る」ことができたとします。どちらのスタイルの方がジャッジや聴衆に好印象を与え、説得力を増すかは言うまでもないでしょう。わたくしが未来塾に入って間もなく、その年の全米大学ディベート選手権で優勝したチームが東京で行った模擬試合を見る機会がありました。デモンストレーションの試合ということもあったからでしょうが、わたくしが最も印象に残ったのは、論者達の笑顔でした。
 
ディベートの試合そのものではありませんが、やはり中津先生がよく引き合いに出した討論として、かなり古い話になりますが、1960年のアメリカの大統領選挙があります。候補者として、民主党の上院議員J.F.Kennedyと共和党の現職副大統領であったRichard Nixonの間で数回行われたテレビ討論です。この討論は一対一のディベートと言えるもので、聴衆は視聴者です。視聴者に対してKennedyは、彼の若々しさと自信に満ちた姿を印象づけ、その結果有権者の支持を増した一方で、Nixonは逆にマイナスの印象を与えてしまい、この流れが大統領選の投票結果を決めたといっても過言ではないと言われています。
冒頭に述べました中級のレッスンが来週から始まります。柱の一つが(日本語による)ディベートです。今回は6名が参加されますので、3名ずつのチーム構成が可能です。私どもはディベートの手法を利用して、英語の論理的構築を鍛えるのが主眼で、試合そのものはあくまでも手段となります。でも、試合に向けての準備や試合を通して得るものは決して少なくありません。このブログで述べた「にっこり笑って、ばっさり切る」ディベートの理想スタイルも、是非受講生には身につけて欲しいと思っています。
 

<ナガちゃん>

中津先生を偲んで~先生の耳と声について~

投稿日:2011年9月15日

まず中津先生の耳(聴覚)について。確か解剖学者の養老孟司さんだったと記憶していますが、中津先生とのある対談の中で、「あなたは全身耳ですね」といった発言をされたとか。具体的に何をもってそのように感じられたかはわかりませんが、鋭い聴覚の持ち主として強烈な印象を養老先生に与えたのでしょう。幼時をロシア語の中で過ごされ、戦後はGHQの電話交換手の仕事を通して英語音に対する聴覚に磨きをかけられた。その後約10年間米国に暮らし、異文化と人種差別の中でのサバイバルによって益々聴覚が鋭くなったに違いありません。
 
でも、わたくしが実際に訓練を受けて最も凄いと感じたのは、先生の声です。
各受講生は必ず訓練内容をすべて録音し、宿題としてそれを次回までに聞き返して来ます。録音テープを聴いて驚くのは、先生の声の明瞭さです。機器は自分の目の前に置いて録音したのに、わたくし自身の声より、教壇のところに座っている先生の声の方が明瞭に入っているのです。何故?テープを聞き返すたびに、良く通る声とは何か、どうしたらそれを出せるのか、考えさせられてしまいます。中津先生は滞米中にボイス・トレーニングを受けられたそうですが、
ロシア語をルーツにした迫力ある声に加え、ご自身で研鑽を積まれた結果として獲得された声なのでしょう。直接的に確認する術はもうありませんが。
 
先生はGHQの交換手時代のことを授業中に時々話されました。当時は終戦直後であり、電話機の台数はまだ少なく、また軍の施設ですので、電話をかける人とその電話を受ける人との間には必ず交換手が介在しました。直接聞いたお話の一つで、記憶に残っていることがあります。それは、話す音を下げることについてです。特に電話の相手が激高しているような時の留意点として。相手がどんなに大声でわめいても、ひたすら冷静に、低い声で応対することが大切と言われました。こちらも声を荒げて怒鳴り返すようなことは、プロの交換手としては絶対してはいけない事項で、わたくしなどは、男性女性の違いはさておき、全く勤まらないと思いました。
 
昨年10月中旬、先生との茶話会が大阪のご自宅近くの公民館で催され、わたくしを含めて数名、東京から参加しました。会場に到着すると既に講演が始まっていました。第一印象は、3年前に東京でお会いした時に比べて、お声の迫力と明瞭さが半減したように感じました。それでも、ご著書「声を限りに蝉が哭く」にサインをお願いしたところ、しっかりした文字で署名くださいました。それから約一ヶ月後の11月19日(金)、私的な事になりますが、わたくしと家内が38回目の結婚記念日を祝って都心で食事して帰宅すると、先生からの留守電が入っていました。「折返し電話下さい」とのメッセ-ジ。既に夜11時近くでしたので、翌朝ご自宅へ電話を入れました。直ぐに応答され10分間位でしょうか、お話ししました。それが先生のお声を聞いた最後となりました。  合掌
 

<ナガちゃん>

未来塾日本語ディベート大会の思い出

投稿日:2011年9月3日

かつて未来塾主催の日本語ディベート大会(*)が毎年一回開かれていました。その年の論題を決めて大会への参加募集を外部に対して行い、4~5チームがエントリー、それに合わせて未来塾の中でも数チームつくり、8もしくは10チームで対戦できるように準備。大会当日の抽選で対戦相手が決まり、午前中予選、午後決勝戦を行うといった段取りでした。
 
わたくしが最も印象に残っているのは、論題が「わが国は陪審制を再び導入すべし」の大会です。わたくし自身、未来塾のあるチームに所属して準備を進めていましたが、大会直前になって新たに1チーム作らなければならなくなり、それまでの仲間と離れ、同様に塾の別チームから別れてきたYさんと新チームを組みました。
 
さて大会当日のこと、我がチームは速成ではありましたが運よく予選を勝ち抜き、午後の決勝戦に出ることになりました。対戦相手はなんと私が数日前まで所属していたチームで、未来塾同士の戦いです。開始まで後5分程、わたくしは呼吸を整えるため化粧室へ向かいました。途中、対戦相手が直前準備の打ち合わせをしている所を通過しました。
 
その時相手チームのリーダー格のTさんと目が合いました。わたくしは目で会釈し、一言挨拶でもと思って少し近づきました。その瞬間、彼女はわたくしを少し睨むようにして、両手を広げて彼女のチームメイト2人と打ち合わせに使っていたテーブルを隠すような動作をしました。まるで「何しに来たの、偵察でもするつもり?」といった感じで。わたくしは、「あっそうか、今や敵同士なんだ。」と認識を新たにしたのです。
 
決勝戦が終わりました。審査員は未だ討議中で、間もなく判定が出ようかというときでした。直ぐ前の席に中津先生が座っていましたが、くるっと上半身を回してあの特徴のある目でわたくしを見て一言、「優勝したら何奢ってくれる?」。何の「な」、奢っての「お」、くれるの「れ」にアクセントのある大阪弁でした。余りに突然でしたし、わたくしは決勝戦の熱さめやらぬ中、ただびっくり。でも優勝チームのみが受け取ることができた賞金で先生に「何を奢るか」については杞憂に終わりました。審査員3人の判定は、2対1で相手チームの勝ちでしたので。
 
帰路、わたくしはチームメイトのYさんと地下鉄のホームで、電車が来るのを待っていました。ベンチに座ったYさんは準優勝の賞状を見ていました。突然彼女はそれを荒々しく筒状に丸めました。まるでそのままゴミ箱に捨てるかのようにして。彼女は確か前年の大会でも準優勝でした。今回は期するものがあったのでしょう。それが優勝を逃して悔しかったに違いありません。わたくしはと言えば、悔しさはありましたが、速成チームにもかかわらず決勝まで進み、戦い終えた充実感の方が勝っていた気がします。
 
いずれにしても、わたくしにとって、様々な人間模様を見たディベート大会でした。
 

(*)未来塾日本語ディベート大会:未来塾が主催し、バベル翻訳・外語学院(現バベル)および日本ディベート協議会の後援のもとに、1990年の第1回より1997年の第8回まで毎年開催した。ディベートと言えば英語でやるものという通念を覆し、日本語で行うディベート大会のさきがけとなった画期的な大会。

<ナガちゃん>